HOME


 

ブログ2012

橋本努

 


 

■センの自由主義批判に対する批判

 

亀本洋著『法哲学』成文堂

 

亀本洋様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 法哲学の講義のための教科書、ということですが、分厚いですね。亀本先生の主著となる集大成ではないでしょうか。五〇代半ばにして、このような大著をまとめられましたことを、心よりお喜び申し上げます。

 いろいろな内容がつまっており、研究人生そのもの、という感じです。研究人生というものは、最初は論理的なパラドックスのようなものに引かれて入るという、そういう部分があるかと思います。本書では例えば、ホーフェルド図式に関する議論ですね。歳をとってみると、こういった議論に対する魅力はあせて、もっと重要な問題があることが分かります。本書には、そういった導入がまずあって、そこからノージックの最小国家論、市場と競争、とりわけオーストリア学派の父、メンガーの議論を経由して、「法と経済学」というテーマに進み、それからアリスとてリスを経て「分配の正義」論に至り、最後に到達するところが、自由論なのですね。

 どれも私がこれまで関心を寄せてきたテーマです。大変興味深いです。自由論のところで、ハイエクのという「パワーとしての自由」について触れられています。「選択しうる物理的可能性の幅」という意味ですが、ハイエクによれば、これは「本来の意味での自由」ではない。ところがアマルティア・センは、この「パワーとしての自由」を軸として、議論を展開します。その議論が「パレート派リベラルの不可能性」として定式化されるとき、それはしかし、リベラリズムを否定することにはならないのだという指摘は、まさにその通りでしょう。

 センの使用する「リベラリズム」ないし「自由」は、他の構成員の選好にかかわりなく、社会状態の一部を決める権限を、個人が持っている、という意味です。しかしこれは積極的な自由の概念であって、リベラリズムのいう「私的領域の保障」としての自由とは、意味が異なります。センがパラドックスだといっているのは、積極的自由のパラドックスですね。579頁、同感です。

 

 

■ドゥオーキンの難点は外的視点を軽視すること

 

宇佐美誠/濱真一郎編『ドゥオーキン 法哲学と政治哲学』勁草書房

 

宇佐美誠様、濱真一郎様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ドゥオーキンの法哲学を批判的に検討した論文集ですね。最初の宇佐美先生と濱先生の紹介を読んで、おおよその状況を掴むことができました。ハートとドゥオーキンの論争は、ハートの遺稿をもとに再開され、そしてドゥオーキンの2006年の著作、『法服を着た正義』(邦訳は『裁判の正義』)でもって、さらに応答されています。

 この論争をどのように受けとめるか、というのは法哲学における一つの重大な問題でしょう。ハートに対するドゥオーキンの最初の批判が出たとき、私はそれでハートに対する批判をする意味がなくなった、と感じましたが、本書ではなんと、森村進先生が、ドゥオーキンに対する徹底的な批判と、ハート擁護論を展開しているではありませんか。

 森村進先生ほどの抜きん出た思想家でなければ、こうした徹底的なドゥオーキン批判はできないかもしれません。それはとても抜本的な批判であり、まるで議論のテーブルがひっくり返るような魅力がありました。

 森村先生によれば、一般の私人をはじめ、法現象にかかわっている当事者たちの多くは、つねに内的視点をとっているわけではありません。また、多くの法現象は、当事者たちの主観的な意図や解釈から離れて生じています。

 また、「法の帝国」のなかには、居留外国人も存在しているわけであり、ゲームに対して内的視点を取っていない人も、法に拘束されているのが現実です。そうした人々をどのように扱うのか、という問題は極めて実践的ですね。森村先生は、「私はドゥオーキンの政治「共同体」に住みたくない」とも述べています。96頁。

 ドゥオーキンの「正答テーゼ」に対する森村先生の批判もまた、パンチがありました。およそ分化したシステムに内在的な視点でもって対応すれば、そのシステムは最もうまく機能するはずである、という考え方は、期待はずれに終わります。システムに対する外的な視点、(例えば法であれば、経済的な視点)というものがなければ、分化したシステムをうまく調整できない、ということでしょう。いろいろと啓発されました。

 

 

■ロールズの原初状態を刷新するために

 

田中愛治監修、須賀晃一/斎藤純一編『政治経済学の規範理論』勁草書房

 

田中愛治様、須賀晃一様、斎藤純一様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 中心的な問題となっているのは、ロールズの原初状態の前提を、いかに書き換えるか、という点です。ロールズに対する諸批判を踏まえて、もっと現実的で、さらに最近の行動経済学の成果を踏まえた人間学的想定を加味して、その上であらたな社会契約論を展開すること。それが現在、規範理論家にとって求められている仕事なのでしょう。本書はそのための予備考察的な内容を多く含んでいます。何が問題であるか、とくに第一章と第二章を読めば、おおよその状況を掴むことができます。

 

 トヴェルスキーとカーネマンによる行為の非合理性という問題を考慮に入れたとき、はたして原初状態での選択は、まともな正義理念の採択にいたるのか、という問題があります。この問題をどのように考えるか。正義の一般的な状況においては、行為の非合理性という真理的問題は発生しない、と想定するのか。それともやはり、正義の一般的な状況においても、人々は非合理的な選択をしてしまう、と想定するのか。もし非合理的な選択をしてしまうのだとすれば、やはりモデルとしては何が合理的であるかを示すための利得構造をもったものでなければならず、それは帰結主義的な思考を正当化することになるかもしれません。井上彰論文はこうした問題の端緒に触れています。

 

 ヴァン・パリースのいうリアル・フリーダム(実質的自由)が、ベーシック・インカムのたんなる形式的な給付ではなく、さまざまな現物給付を含んでいることのまとめとして、辻健太論文、244-245頁が参考になります。

 

 

■思想の抗歴史的な一貫性について

 

マイケル・サンデル『民主政の不満 下』小林正弥監訳、勁草書房

 

小林正弥先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 上巻については、私は以前論評したことがありましたが、このたび、下巻も刊行され、これでサンデルの主著の全体が紹介されたことになりますね。

 政治理念における美徳の問題が、いかにして語られ、そして最終的には忘れ去られていったのか、という問題について、アメリカの政治史を一つのドラマのように描き出しています。ケインズ革命というのが、最もパンチの効いた「反-美徳」の政治で、これに比べると、レーガンの新自由主義は、新保守主義とも結びついて、地域共同体の美徳を再生する方向にも向かうわけであり、コミュニタリアンにとっては、現代のネオコンによる美徳の再生と、どのような関係を取り持つのか、ということが、一つの重要な問題になるのではないか、と思いました。

 それにしても、思想の布置連関というのは、時代とともに変化していくので、例えば、この二百年間の思想状況の変化を見通した場合に、自分の思想がどれだけ一貫した立場になりうるのか、ということを考えることは、とても意味がありますね。

 サンデルの場合、そのような歴史のなかで、自己の立場を一貫させようとしていますので、思想そのものの体系というよりは、その都度の立場表明を歴史的に一貫させることによって、思想の「強度」や「深み」を出している、という感じですね。

 アメリカの歴史の特異なところは、独立自営農民のようなモデルが、資本主義の原始蓄積段階で求められる場合に、それが封建的な支配体制に対する革命的な意味を持つのではなく、そもそもそのような人民からなる共和主義的な国家というものを想定することができます。ですので、共和主義のこのモデルは、コミュニタリアン的であり、またリバタリアン的であると同時に、反進歩主義的で、反経済成長主義なもののように理解されます。けれども他の国では、このモデルはやはり進歩主義的なものであり、また経済成長のための礎として意義を持つ、とされるでしょう。

 最も論争的なのは、現代において、商店街(小売)を擁護する際に、それが「政治的に自律した判断のための経済的な自律の基礎」であるという人格上の理由から、どこまで正当化可能なのか、という問題です。多くの人々が、大企業や中小企業に勤めている社会で、政治的に自律するための経済的基礎とは何か、という問題が、改めて問われているのだと思います。

 

 

■排除しない共同体は、可能的世界の評価を必要とする

 

斎藤純一/宮本太郎/近藤康史編『社会保障と福祉国家のゆくえ』ナカニシヤ出版

 

斎藤純一様、宮本太郎様、近藤康史様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 社会保障と福祉国家をめぐる最新の論文集です。

 「ソーシャル・ミニマム」よりも、「ベーシック・キャピタル」を給付の対象にするという、現代福祉国家の新しい構想は、どんな思想に基づいているのでしょう? ベーシック・キャピタルは、社会的協働への参加を保障するために必要であると同時に、その他、さまざまな理念からその必要性を論じることができるのではないか。とすれば、これはとても興味深い思想的問題を提起している、と思いました。

 第一章の斎藤純一先生の論文は、ロールズの財産所有のデモクラシーを読み込んで、リベラルな福祉国家を、もっと市民派的な共同体主義から解釈するというものです。すなわち、どんな人も、社会的な協働(市場への参加ではなく市民社会への参加)から排除されてはならない、という理念を提起しています。

 その際の問題点として、次のようなことがあります。すなわち、どんな共同体でも、それに固有の評価基準というものがあって、その基準からみて排除されてしまう人、あるいは、コミュニティの他者の評価を享受できないという人が、生じてしまいます。およそ社会が、各人に「自己尊重(self-esteem)」の感情を保障することは、その人の活動に対する「現在の評価」によって評価するかぎり、不可能でしょう(19頁。)社会は、あらゆる人の「自己尊重」の感情を、現在の評価によって保障することはできません。

 ある共同体において、「何をなしてきたのか」「何をなしうるのか」という観点からのみ人間を評価すると、共同体から排除されてしまう人が生じる。そのような人をどのようにして救済することができるのでしょう。おそらく、現行の諸々の評価基準では評価できないような、別のオルタナティヴな評価基準が必要になるのでしょう。

 「排除なき共同体」を展望するためには、「別の評価基準であれば、この人を承認することができる」という、仮想的な評価社会の重要性を認めなくてはなりません。そのような社会を想定して、はじめて、排除される人がいなくなるからです。

 そのような可能的な世界の評価基準を、できるだけ現勢化するためには、各人に、さまざまな社会的協働への参加を可能にするための、ベーシック・キャピタルが必要になる、ということになります。

 このロジック、もっと探究するに値すると思います。アセット・ベースの社会という構想は、「可能的世界」を想定する思想的立場からみて、とても重要です。逆に、「自己尊重」の感情を含めて、すべてのケイパビリティを「現実的世界」において実現可能なものにするという発想(アリストテレス的な潜在能力論)は、ベーシック・キャピタルのような立場を、美徳の実現からの一歩後退である、とみなすかもしれません。

 

 このほか、新川敏光先生による、福祉レジームの四類型、84頁、は重要です。

 

 

■ハイエクは常識的な思想になった

 

仲正昌樹著『いまこそ、ハイエクに学べ』春秋社

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 とくに法哲学的な観点からのハイエクを、見事に咀嚼して解説しています。これまでにないハイエクの魅力を解説した、入門書ですね。

 いつもながら、面白い「あとがき」から読ませていただいています。

 仲正先生によると、ハイエクの思想は、あまりに「常識」的であるように思え、びっくりするようなどんでん返しが、なかなか見当たらないということです。ですが私がハイエクを読んだ頃は、かなり非常識なことが書かれているように思われました。80年代のことです。その当時は、市場は根源的に不安定なので、その不安定性に対処するために、政府介入を正当化することができる、というのが、マルクスとケインズ(あるいはヴィクセル)を研究している人たちの共通の思考方法でした。そのような発想法からすれば、市場の自生的秩序というのは、非常識でした。でも今となっては、一つの常識的な考え方になったのでしょうね。

 哲学・思想がやるべきことは、普通の人の常識からはなかなか出てこない、逆転の発想のようなものを示し、読者に生き生きとした新鮮な感動を与えることである、というのは、なるほど頷けます。そういう哲学・思想を、大切にしたいですね。いまの時代に求められている思想は、こうした観点からすると、ロールズやハイエクではなく、ケインズでもなく、もっとラディカルなものなのかもしれません。

 

 

■バイオガスプラントの矛盾

 

吉田文和『グリーン・エコノミー』中公新書

 

吉田文和様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 3.11原発事故の後に書かれた、環境経済学に関する最良の入門書です。EUでは、持続可能な社会のために、さまざまな指標を組み合わせて社会のパフォーマンスを評価するという方向に動いています。日本もまた、そのような指標の組み合わせによって、自国の経済システムを判断するという、そのような熟慮と良識が求められているのでしょう。

 ところで、北海道の別海町では、いくつかの農家でバイオガスプラントが使われています。それによって余った電力は、電力会社に売電されています。ところが、電力の買取価格が低いために採算が取れず、結果として、夜は発電できずに、家畜排出物から生まれるメタンガスを大気中に放散する場合もあるようです。すると結局、地球温暖化を促進することになってしまうのですね。

 そういう矛盾を解決するためには、電力会社は夜間も、バイオガスプラントで作られた電気を買い取る必要があるでしょう。夜間の買取価格を低くしてでも、電力会社が電力を買い取るという仕組みがなければ、地球温暖化を促進してしまいます。現行の制度には、そういった問題があるのですね。勉強になりました。(とりわけ、198頁以下、参照。)

 

 

 

■ジャーナリストになるために

 

武田徹『原発報道とメディア』講談社現代新書

 

武田徹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 3.11原発事故の後に、六月に刊行された本ですが、原発報道が本題というよりも、武田先生のようなすぐれたジャーナリストになるために、どんな知識と心構えが必要であるか、というジャーナリストになるための入門になっています。

 随所にルーマンのシステム理論からのアイディアが参照されていて、メディアやジャーナリズムという仕事が、高度に理論武装した「理念」によって突き動かされているようにみえます。あるいは、ジャーナリズムは、そのようなものでなければならないという規範を示しているのでしょう。

 「あとがきにかえて」では、武田先生がいかにしてジャーナリズムの世界に惹かれて行ったのか、という自伝的な叙述になっています。とても読ませます。

 

 

■環境プラグマティズムは人間中心主義

 

戸田山和久/出口康夫編『応用哲学を学ぶ人のために』世界思想社

 

戸田山和久様、出口康夫様、蔵田伸雄様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書は、日本初の応用哲学の入門書である、と謳っています。さまざまな分野に、哲学が挑戦している、ということが、全体として鳥瞰できるようになっています。

 環境倫理という点で、プラグマティズムは、功利主義とは異なって、解決策の認識における真理の収斂説というものに、コミットメントしているのですね。環境問題を具体的に解決する場面で問われている事柄は、おそらくそのような哲学の有効性でしょう。蔵田論文は、最近の環境思想へのすぐれた導入になっています。結局、自然の内在的な価値というよりも、問題解決に必要な場面で考えれば、ある程度の人間中心主義は不可欠であり、そのような現実的立場から、環境問題にアプローチしたほうが、実効的であるというのは頷けます。この種の環境プラグマティストに問われているのは、哲学的なオリジナリティではなく、どんな環境政策を実際に支持し、また実効性を与えたのか、という、きわめて応用政策的なスタンスにあるのでしょう。その意味で、環境プラグマティズムは、環境運動論の意義を評価する方法論であるのかもしれません。

 

 

■社会的投資国家はいかにして正当化可能か

 

盛山和夫『経済成長は不可能なのか』中公新書

 

盛山和夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 盛山先生によれば、長期不況問題に関する経済の専門家たちの議論には、十分に納得のいくものが少なく、まさに、専門家レベルでの議論の混迷こそが、現実の政治レベルにおける経済政策や財政での失敗をもたらしている、という。

 そこで社会学者の出番というわけですが、問題となっているのは、円高、デフレ、少子化、社会保障費と増税のパッケージ、等々です。これらの問題に対して、最も経済成長率が高くなる仕方で、政策を考えることが問われています。

 むろんそのようなアプローチは、これまで、政府的な立場(官庁エコノミスト的な立場)によって検討されてきました。ところが政府的な立場を擁護する議論が、いま混迷を続けている。ならば社会学者こそが、この問題に答えるべきだというわけでしょう。そのような発想は、例えば1990年代のイギリスで、ギデンズが「第三の道」を唱え、まともな経済政策の道筋を示したことと類比されます。

 本書で最も重要な部分は、「政府は未来に向けて投資すべきである」という規範的な議論だと思いました。このテーマは、例えば、従来のリベラリズム対コミュニタリアニズムといった思想論争で抜け落ちていた論点であり、現代の経済思想は、これを受けとめて、まともに議論しなければならないでしょう。

 低成長時代あるいはマイナス成長の時代に、人々は経済の果実を、政治的に奪い合うようになります。そのような状況のなかで、「社会的投資国家」という理想は、いかにして正当化されるのでしょうか。成長論的な思想の枠組みをもたない議論において、これを正当化するためには、世代間の正義という理念に訴えることになるでしょう。しかし十分な社会的投資の理念は、たんなる世代間正義の要求を超えています。そのような要求は、「共同体は、世代を超えていっそう繁栄すべきである」というコミュニタリアン的な発想を必要としているのかもしれません。ではこのような規範理念は、いかにしてリベラリズムの側から正当化されるのでしょう。

 こうした関心を抱きました。いずれにせよ、本書の政策論はきわめて現実的で具体的であり、そのような方向に盛山社会学が向かったことは、一つの冒険であり、新しい可能性を示していると思いました。

 

 

■民主主義ではなく商業の相互依存こそが平和をもたらす

 

小田川大典/五野井郁夫/高橋良輔編『国際政治学』ナカニシヤ出版

 

小田川大典様、五野井郁夫様、高橋良輔様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 国際政治学に関して、かなりまとまった内容の、気合の入った教科書になっています。現代の議論を一通り要約してみせるその力量に、感服します。とくに第一章は、すばらしい導入になっていると思います。

 

 第四章の「民主的平和論」(多胡淳)は、計量国際政治学の紹介であり、とても示唆的です。例えば、「戦死者を1000人以上ともなうような規模の大きな戦争」を、民主主義の国が積極的に仕掛けた場合には、14勝1敗、逆に仕掛けられた場合には、217敗、という統計が得られているという。これに対して独裁国家の場合、戦争を仕掛けた場合には2114敗、仕掛けられた場合は、1631敗であるという。

 フマンズの研究によれば、民主主義国では、戦争に部分的に負けるだけでも、政府はその政治生命を絶たれてしまう場合が多い。これに対して独裁国家では、戦争に限定的に負けても、政権を維持できる確率が高いという。

 

 他方で、ガーツキーは、民主主義が平和をもたらすのではなく、商業の相互依存関係が、国際平和をもたらすということを、実証的に分析している。戦争をするというのは、相手の国から商業を引き上げることを意味するので、そのコストが高いときには、戦争は起きにくいだろう。したがって、経済発展が進めば、相互依存関係を深めた近隣諸国とのあいだに、戦争は生じなくなるだろう。むしろその場合には、遠隔地での戦争が生じる可能性がある。

 あるいはまたガーツキーによれば、経済的相互依存の関係が深まれば、政治に関する選好や意見も一致するようになり、例えば、国連の総会決議に対する投票にも、その一致の度合いが見て取れるという。

 こうした実証から考察すべきは、北朝鮮やイランなどに対して、民主主義を要求するのか、それともまず経済的な相互依存の関係を築くべきなのか。そういう規範的な議論でしょう。民主主義化を強調する立場は、国際政治的には、軍事的強行主義と結びつく可能性があります。

 

 

■「福祉世界」とは国家干渉の縮小をもとめる社会のこと

 

ウィリアム・J・バーバー著『グンナー・ミュルダール ある知識人の生涯』藤田菜々子訳、勁草書房

 

藤田菜々子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

  本書は、ミュルダールの研究と人生をコンパクトにまとめた好著です。著者のバーバーは、ミュルダールの大著『アジアのドラマ』にかかわる研究プロジェクトに参加した経験を持っています。経済思想史のベテランの研究者(1925-)です。

 

 ミュルダールは、著書『福祉国家を超えて』のなかで、将来の「福祉世界」のイメージを、次のように描きました。すなわち、国家の直接的な干渉によって福祉を実施するのではなく、可能なかぎり、その責任を「地域別」や「部門別」の当局に移譲するような社会が望ましい、と。(186)

 この「福祉世界」のアイディアは、国際的な経済組織の発展によって、国家の干渉主義をできるだけ削減しようと企てる点で、ある意味で「新自由主義」のアイディアとも両立するような福祉政策です。私はこれを、「北欧型新自由主義」というモデルとして、新たに検討すべきではないか、と考えています。

 

 ミュルダールの晩年の大作、『アジアのドラマ』をどのように評価すべきでしょうか。ギアーツは本書を批判していますね。けれども本書のなかで、興味深い記述がありました。ミュルダールの娘、シセラ・ボクは、父の研究生活について、次のように記しています。「真夜中に起き、恐怖や不安を感じながら考えることがよくある。いったい私は何をしているのか、いつそれはできあがるというのか。そうした書物を書くのは、ひざまで泥に浸かって第一次世界大戦の塹壕に立っているようなものだ」と。

 

 ミュルダール本人は、『アジアのドラマ』を書いているとき、次のようなことを記しています。「私はこのとてつもない仕事を私のシステムから産出するために、私の人生の他のいかなる時よりも、そして私がこれまでに見た他のいかなる人よりも、懸命に働いてきました。昼夜をおかず、土曜も日曜も働き、休みはありませんでした」と。(206)

 

 晩年に、これだけの大著を書くということは、本当に壮絶な研究生活だったと思います。それ自体として、尊敬に値しますね。通常の大著にして三冊分の分量をもつ『アジアのドラマ』に、私はいまも、圧倒されています。

 

 

■ハイエクは実物的な経済分析へ回帰した

 

ハイエク著『資本の純粋理論T』ハイエク全集第二期、第八巻、江頭進訳、春秋社

 

江頭進様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 1941年に刊行された本書は、1962年に一谷先生が翻訳を刊行されています。その訳を全面的に改定した新訳(二分冊で刊行予定の第一分冊)が、このたび、江頭先生の手によって刊行されました。大変重要な本の翻訳だと思います。新訳の刊行を、心よりお喜び申し上げます。

 ハイエクは、この本を出した後に、狭義の専門的な経済学の研究を離れて、社会科学全般を扱う思想家としての道を歩み始めました。本書の内容については、ハイエクが専門的な理論研究の新たな発展に行き詰ったのではないか、その試行錯誤の軌跡ではないか、というようなことがいわれています。本書をどのように評価すべきかについては、いろいろと議論があるでしょう。

 いずれにしても、解説で池田幸弘氏が指摘しているように、ハイエクが本書で、もう一度「均衡」分析の有用性を認め、しかも実物的な分析に回帰しているというとは、重要です。ハイエクには、貨幣的側面に焦点を当てたケインズの理論とその政策的含意に対抗し、実態としての経済が自生的な安定性を保持しうることを証明するという、そういうモチーフがあったのかもしれません。

 本書の後半の翻訳も、楽しみにしています。

 

 

■「政治」の四類型は、「経済」にも当てはまる

 

デイヴィッド・レオポルド/マーク・スティアーズ編『政治理論入門 方法とアプローチ』山岡龍一/松本雅和監訳、慶応大学出版会

 

山岡龍一様、松本雅和様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書は、政治哲学や政治理論を専門とする人のための入門書です。研究のための「方法論」や「アプローチ」にこだわって、さまざまな観点から、最先端の研究成果を紹介しています。全体として、かなり統一されたスタイルになっています。それはある意味で、個々の執筆者の個性がみえないほどなのですが、徹底的に分析的な研究方法というものを、突き詰めています。

 

 どの章も徹底的で申し分ないのですが、エリザベス・フレイザーが担当した第九章「政治理論と政治の境界」は、興味深く読みました。

 目的と手段に注目してみると、「政治」概念は四つに分類することができます。

 第一に、あらゆる目的について、それをあらゆる手段で実現する際に問題となるもの、つまり「すべては政治的である」という場合の政治とは、あるテクニックの側面に関わるものですね。

 第二に、ある特定の目的について、それを実現するためならどんな手段でもかまわない、という場合の政治。この場合の政治は、マキャベッリ的な意味を伴います。

 第三に、あらゆる目的について、ある特定の手段を用いて実現することを「政治」と呼ぶ場合があります。別の手段で実現する場合には、それは「経済的に実現する」とか、「政治も経済も媒介にしないで実現する」とか、つまり、機能的な代替物があることになります。ある目的を達成するための、政治を脱政治化することができます。

 第四に、ある特定の目的について、これをある特定の手段で実現する場合に、「政治」という概念を用いることがあります。アーレントのいう「政治」とは、これに相当する、というのが著者の読みです。ある公共的な目的について、これを、公共的な手段(活動的な生にもとづく、公開的な討議など)によって実現する。そのような政治は、一方の目的がそのための手段を制約し、他方の手段が、それによって実現すべき目的を制約するという、相互に制約するような関係のなかで、限定されるものになります。

 著者は、この第四の「政治」概念に関心を寄せて、既存の政治哲学を、第一の概念から第四の概念に至る流れとして再構成しています。それともかく、同じような分析は、「経済」の概念にも当てはまるのではないでしょうか。

 第一に、あらゆる目的をあらゆる手段で実現する場合の「経済」とは、とにかく手段を節約して、目的実現のために最も効率的なやり方を選ぶというその合理性や選択性というものが、経済の本質であると考える立場です。限界効用理論やゲーム論などに立脚する理論は、このような立場に分類されるでしょう。

 第二に、ある特定の目的を、あらゆる手段で実現するという場合の「経済」とは、実体としての「経済」をまず研究対象・分析対象として特定化した上で、そのための最善の方法を、政治的な取引や分配を含めて考えるというものです。これは例えば、福祉国家の運営を研究対象とする、厚生経済学の議論に代表されるでしょう。

 第三に、あらゆる目的について、その目的を特定の手段で実現するという場合の「経済」概念があります。これは実体としての市場経済を念頭において、例えば、ある財の分配を、政治的な議論と指令によって計画的に実現するのか、それとも市場取引を通じて自生的に実現するのか、という議論をするでしょう。「経済的」な行為は、「政治的」な行為と、ある程度まで機能的に代替可能であるとみなされるでしょう。

 そして最後に、ある特定の目的について、ある特定の手段によって実現すべきであるようなものを「経済」と呼ぶことがあります。カール・ポランニーの理想とする経済とは、そのような意味の文脈を大切にするでしょう。目的と手段が、相互に制約しあいながら、経済的なものを共同体のなかに埋め込んでいく。そのような理想の一つは、共同体主義的な経済でしょう。

 こう考えてみると、20世紀の中庸に、アーレントとポランニーがいずれも思想的に高く評価されたことが、単なる偶然ではないようにみえてきます。しかしその後の思想は、どのような方向に向かったのでしょうか。

 目的と手段をめぐる、これらの四類型に含まれていないのは、マルクスの政治であり、ハイエクの経済です。どちらも、「あらゆる目的/手段」とか「特定の目的/手段」という認識枠組みを超えて、まだ潜在的な可能性として存在するにすぎない目的/手段によって、政治と経済を規定する試みだといえます。このように考えてみると、「政治」とは何か、「経済」とはなにか、について、もっと別の切り口から、本質的な議論を展開できるかもしれません。

 

 

■イデオロギー批判はいかにして可能か

 

ポール・リクール『イデオロギーとユートピア 社会的想像力をめぐる講義』川ア惣一訳、新曜社

 

川ア惣一様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 リクールの講義です。マルクスから始まって、アルチュセール、マンハイム、ウェーバー、ハーバーマス、ギアーツとすすみ、最後の第三部は、ふたたびマンハイム、そしてサンシモンとフーリエの空想的社会主義で終わります。

 とても正統な分析手法であり、リクールはその意味で癖がないのですが、たんなる思想家ではなく、思想史研究者としても一流であることを示しています。

 結局、イデオロギーというのは、現実を歪曲して認識するための装置といったものではなく、むしろ、各人のアイデンティティを統合する機能を提供しているものだというのが、リクールの考え方です。もしイデオロギーが現実の歪曲であるとすれば、私たちはそのイデオロギーを超えるために、「真の認識」を獲得しなければなりません。それは社会科学によって可能になる、と考えたのが、科学的社会主義でした。ところが「真の認識」というのも、実は特定の価値観点を想定しなければならない。するとそれは、「歪曲」を超える「あるがままの現実」を開示するものではありません。

 イデオロギーを科学によって批判することができないとすれば、どのようにして「批判」の営みは可能なのでしょうか。リクール的に発想すると、イデオロギーは、各人のアイデンティティとして、実践的な生活の中に埋め込まれ、存在しています。そのような存在を批判するためには、可能的世界としてのユートピアを対置させ、そのユートピアによって存在を批判することが、一つのやり方になるでしょう。すると思想にとって重要なことは、可能的な世界を描くことです。可能的な世界を豊に描いた空想的科学主義者たちこそ、偉大な思想家である、ということになるでしょう。

 私もこのような発想を支持します。ただ、現実の個人は、かならずしもイデオロギーによってアイデンティティの統合を果たしているようにはみえません。『経済倫理=あなたは、なに主義?』でのアンケート結果でも、多くの人は、イデオロギーによって統合されているのではなく、もっと曖昧な考え方をもっていて、しかも可変的です。アイデンティティの統合機能は、もっと別のところにあるようにみえます。また例えば、この社会において自身の社会的地位に満足できない人は、可能的世界にこそ、自身のアイデンティティを位置づけ、統合機能を満たすのではないでしょうか。

 可能的世界によってアイデンティティを獲得している人は、現実に通用している支配的なイデオロギーに対して、憤りの感情をもち、そのような感情によって政治に接近するかもしれません。そのような憤りは、イデオロギーの形態をとっていません。

 いずれにせよ、可能的世界によってアイデンティティが得られるような社会においては、イデオロギー批判は、いかなる方法によって実効的に意義深いものとなるでしょうか。そんな問題を考えてみました。

 

 

■「統治2.0」はハイエク的なアイディア

 

西田亮介/塚越健司編『「統治」を創造する』春秋社

 

西田亮介様、塚越健司様、吉野裕介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 少し前までは、フーコー的な流儀にしたがって、統治する/される、ということに対して距離をおき、あらゆるガバナンスから自由になるような批判的立場こそ、すぐれた知的立場であるかのように語られていました。ガバメンタリティに対して批判して、ミクロの統治権力から逃れるためには、いかにして現実を解剖することができるか、というような関心が知識人を支配していました。

 ところが本書のように、「統治」をすくなくとも(ビジョンやポリシーとは区別される)オペレーションの次元で創造していこうという関心は、清新で真摯な取り組みです。

 たしかにウェブを使えば、民主主義はもっとうまく機能するかもしれないですよね。情報や意見の集約、意見の熟成、関連する情報の提供、コミュニケーションの濃密さと円滑さ、等々、情報に関する環境は、少なくとも従来の民主主義過程よりも、格段によくなっているわけです。これだけソーシャル・メディアの利用が普及したのだから、統治の構造も変えられるのではないか。そんな関心から、本書はさまざまな論者たちが寄稿しています。

 吉野裕介「ハイエクの思想から読み解くオープン・ガバメント」は、ハイエクの知識論というものが、政府を小さくすることよりも、政府を開くことに有効であるということが示されていて、興味深いです。「個別的で現場に埋め込まれた知識」というものをうまく利用するためには、経済であれば計画経済ではなく、市場競争を通じて新しい発見と流通を促すことですよね。では民主主義において「現場の知識」を有効利用するためには、どうすればよいでしょう。コンピューターが発達した社会においては、人々の個別の意見をデータベースとして蓄積し、それを他者が利用することができます。法案をめぐって、人々がさまざまな意見を述べ、それらが蓄積されて、やがて熟慮ある政治判断に結実していく。そういう過程を展望することができるでしょう。

 政府というのは、大きいか小さいかという観点から判断されるよりも、むしろ民主的に決めるべきことについて、人々の意見をデータベース化して、共通のプラットフォームに公開しているかどうかで判断する。そのようなプラットフォームをもっている政府と、もっていない政府の違いこそが、民主主義の質的違いを決定づけるでしょう。それが「統治=政府2.0」という発想です。

 ハイエク的な「文化的進化」のアイディアを応用するなら、政府はプラットフォームのなかに、「あの国ではこれを導入してうまくいった」とか「いかなかった」という「比較制度分析」の情報を組み込む必要があるでしょう。政策や立法というものは、手探りです。一度採用された政策や法律を、いかにして変更するのか、あるいは取捨選択(淘汰)するのかというときに、他国のシステムを参照することはとても重要な判断材料になります。そのような判断材料とともに、文化的進化のメカニズムを政治に応用していくことができるのではないか。そんなことを考えました。いろいろと啓発されました。

 

 

■公共精神こそ、安全を作り出す

 

山脇直司著『公共哲学からの応答』筑摩選書

 

山脇直司様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 3.11大震災と原発事故を受けて、新たな公共性が叫ばれています。東北の復興のために、私たちは本気で日本を復興しなければならない。そのための公共精神(エートス)は、どんな思想的資源によって鼓舞されるのか、という問題に応じた本です。

 とくに、高木仁三郎氏が亡くなる直前に執筆した『原発事故はなぜくりかえすのか』岩波新書、2000年からの引用が、印象的です。

 高木氏によれば、「公」というのは、公的機関のことではなく、人間の持っている、個人を超えたある種の普遍性のことです。そうした「普遍」的な意識がないと、お粗末な原発事故が生まれてしまう。例えば、科学技術の客観性に依拠して、冷徹な業務の編成によって原発を運営していくと、そこには「自己」が抜け落ちてしまって、原発の管理にかかわる人たちは、安全のために、あるいは事故を起こさないために、緊張感のある努力を怠ってしまう。「与えられた仕事を忠実にやればいい」というような没個性的な人間になると、実は事故を防ぐことができない、というわけなのです。

 自分の持ち場や役割を越えて、「パブリック・インテレスト」(公共的な利害関心)の観点から、何か行動を起こさなければならない。そのような精神がなければ、安全を確保することができない。安全というのは、つまり、個々の人間に役割を与えることによっては確保できない性質のものだ、と高木氏は言うのであります。

 すると高木氏の観点からすれば、3.11の原発事故が起きたのは、原発の運営に関わる人々のあいだで、公共精神が欠如していたからだ、ということになるでしょう。それとも、安全を管理する際の役割分担が、明確に規定されていなかったからだ、ということになるでしょうか。

 いずれにせよ、公共精神(士気)というものは、失われたものを新たに自力で復興するという、ある種の反動的・革命的な精神によってこそ、もっともパワフルに発揮されることがあります。少なくとも地震や津波で被害を受けた地域の復興は、失われたものを取り戻すという公共精神を必要としています。本書はそのためのヒントになるでしょう。

 

 

■アメリカ人の精神生活はここから始まった

 

ルイ・メナンド著『メタフィジカル・クラブ』野口良平・那須耕介・石井素子訳、みすず書房

 

野口良平様、那須耕介様、石井素子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 これは本当にすばらしい本です。ピューリッツァー賞受賞作ということですが、アメリカ人の哲学的精神がいかにして育まれたのかについて、伝記的手法を用いて再構成しています。ホウムズ、ジェイムズ、パース、デューイ。それから彼らを取り巻くさまざまな人々。「メタフィジカル・クラブ」という社交的空間を通して、アメリカ人たちが、どのような精神を生きたのか。随所に興味深い物語があります。パースが極貧の生活を送っていたことや、デューイが労働者との会話で啓発されたことなどです。

 まさに、アメリカ人の精神史であり、アメリカ人はこの本を一つの典拠として、その誇りある思考活動を展開していくでしょう。歴史のなかの、精神の要となる物語であり、私たちはここから多くを学ぶことができます。

 ではいったい、アメリカのプラグマティズムとは、何であったのでしょう。

 次のように考えてみましょう。本書ではとりわけ351頁以降が参考になります。

 レストランで、ロブスターにするか、それともステーキにするか、という場面を考えてみます。経済学的に考えれば、その選択は「選好関数」に照らして、最も効用を高くする選択肢が選択される、ということになるでしょう。しかし実際問題として、選択を迷った場合には、私たちは自分の「選好関数」(あるいはたんに「テイスト」)を、よく知らなかった、ということなのでしょうか。それとも「かぎりなく無差別なので選択するための計算が難しい」ということなのでしょうか。

 ジェイムズ流のプラグマティズムの発想は、まず「選択=決断」したのちに、その決断の根拠を探る、というものです。つまり、まず選ぶ。するとその選択によって、選好関数が明確なものになる、と考えられます。選好関数は、あらかじめ明確に与えられている必要はありません。むしろ選ぶという行為が、選好関数を明らかにします。選好関数とは、選択に従属するものであって、選択に先行するものではありません。このように、選択という「行為」が、その「判断根拠」を生み出すこと、あるいは行為とその根拠のあいだには循環のプロセスがあることを、プラグマティズムは指摘します。

 選択の合理性というものは、認知的な一貫性としてあらかじめ与えられるのではなく、選択という行為によって生み出されるものだということ。合理性というのは、自己準拠的なループをなしている、ということですね。そうした合理性は、あとになってから、「やはり不合理だった」という判断に開かれています。いずれにせよ、プラグマティズムの観点からすれば、私たちはあらかじめ存在する「選好関数」と「選択肢」のあいだで合理的な計算をしているわけではなく、むしろ選択によって選好関数を産出している、ということになるでしょう。

 

 

■他人のために生きる人の方が幸せ

 

鈴木謙介著『SQ “かかわり”の知能指数』ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

鈴木謙介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 面白く読ませていただきました!

 本書では、社会的なかかわりの知能指数として、「他者への貢献」「広範囲で協力」「モノより心」「次世代志向」という、四つのポイントがあると指摘されています。考えてみますと、この四つのポイントは、すぐれた教師の生き方のようです。もちろん、学校以外にも、コミュニティというのは、こうした要素を各人から引き出してこそ、幸せな関係を実現できるのでしょう。

 SQ度チェックということで、図1-8, 1-9をみますと、「かかわりの知能指数」は、年収と近所づきあいのよさ、に依存していることがわかります。やはり年収15,000万円以上の人の方が、社交的であり、幸せなのですね。逆説的にみえるかもしれませんが、とにかく年収とSQは比例していることが示されています。利己主義と利他主義は、矛盾せずに相互に強化しあう関係にある、といえるでしょうか。

 図2-4, 2-5をみると、2003年から2008年にかけて、自分が住んでいる地域に永住したいという人の割合が増えていますね。若者たちが地元志向になっている。なぜ地元に住みたいのかと言えば、友達がいるから、というのがその理由のようです。

 この他、家電量販店とアウトレットモールというものが、家族にとってテーマパーク的な機能をそれぞれ別の仕方で果たしていることなど、本書の論述にはさまざまな社会学的分析が効いていて、とても刺激を受けました。

 本書の最後に、SQの六タイプというものが載っています。例えば「5年連続町内会長」とか、「ガチで正義の味方」とか、「ちょいエコセレブ」とか、いろいろ面白いキャラクターがでてきます。これをみると、SQの低い「半径五メートル星人」は嫌ですが、反対に、SQの高い人のキャラクターも、別にそれほど理想ではないなあ、という感じがします。こういうアイロニーの効いたイラストがあると、SQをちょっと突き放してみるための視点にもなりますね。

 でも基本的には、「他人のために何かしたい」とか「社会に貢献したい」とか「子供や孫のために何かしたい」と考える人の方が、幸福になれるという、ストレートなメッセージが響いてきました。

 

 

■仮面ライダーの進化が面白い

 

宇野常寛著『リトル・ピープルの時代』幻冬舎

 

宇野常寛様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 とても面白かったです。村上春樹は山車、というか前座、という感じですね。

 やっぱり仮面ライダーの番組企画というものが、現代社会を反映するためにいろいろと練られていて、しかし視聴率が落ちてしまうと、仮面ライダーは新しい企画でもって、もっとグロテスクに現代社会を描き出そうとするという点が面白いですね。正義が複数ある場合には、それぞれの正義のあいだでバトルすることになる。現代社会は、そういう多元社会であるという認識ですよね。イラク戦争はまさにそういうバトルでした。いま3.11を受けて、どんな仮面ライダーの企画が可能なのか。仮面ライダーに目が離せません。

 私たちは「いまここ」に留まったままで、世界を掘り下げ、どこまでも潜り、多重化して拡張していくことができる、というのが本書の認識であり、また時代を謳歌するテーゼであります。実はこの感覚は、私の次著『ロスト近代』のテーマと大きく重なっています。ロスト近代の駆動因とはなにか。それは潜在的可能性の増大です。その感覚について、私も別の角度から論じるつもりです。

 すでに『東洋経済』で書評させていただきました。いずれこちらもアップしますね。

 

 

■AKB48に現代の世相を見る

 

宇野常寛編集『PLANETS SPECIAL 2011 夏休みの終わりに』

 

 いつもながら、本当にすばらしい編集です。これだけの内容を盛り込んだ雑誌は、他にはないでしょう。

 小林よしのり×中森明夫×宇野常寛の対談を、興味深く読みました。AKBの歌の歌詞が、自分たちの生活や心情のことを歌っている。こういうパタンは、これまでになかったというのは、確かにそうですね。

 「あなたが好きよ」といった、ファンの人たちに擬似恋愛の感覚を与えて喜ばすというのではなくて、総選挙などがあるAKBのシステムそのものが、社会の縮図になっている。AKBをみて、その歌詞を聴けば、社会の厳しさとすばらしさが、同時に分かるようになっている。

 だからファンと一体化するといっても、AKBの場合は、アイドルとファンのあいだで、カプセルのように閉じてしまうのではない。そこから日本を変えていくぞ、世界に飛び出していくぞ、といった開放的で積極的なメッセージがあるわけです。これはつまり、AKBというのは、戦時中の特攻隊が果たしていた役割を引き受けているのではないか。そういう「強度」と「緊張感」のある生活が、人々を励まし、人々が付いてくるための理由となっている。

 「国民的アイドル」というものが、いまなお可能であるとすれば、AKBのような社会の縮図が必要なのでしょう。昨年私は、AKBの映画をみましたが、自分はこの集団の中でどういう役割を与えられているのか、ということに、メンバーはそれぞれ自覚的であることが印象的でした。

 

 

■自生的秩序論はカウンターとして革命的な思想である

 

嶋津格著『問いとしての〈正しさ〉』NTT出版

 

嶋津格様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 嶋津先生がこれまで書かれてきたもののなかで、比較的読みやすいものを集めた論文集です。まさに嶋津先生の研究人生を凝縮した一冊ですね。(集成として、この他にもう一冊、もっと専門的な本が予定されているとのこと、こちらも楽しみです。)

 本書のなかで、やや難解とされる第二章「法における「事実」とはなにか」を興味深く読ませていただきました。それはハートの法理論に関する問題です。

 法がなんであるかを同定するためには、たんに言語によって記述するだけではダメで、そこには同定に際して使用されるメタ・レベルのルールがあるはずです。そのメタ・ルールは、必ずしも言語化されていないのですが、ただ法を扱う際の私たちの慣行(practice)に体現されていなければならないでしょう。

 ハートの理論で問題になるのは、そのメタ・ルール(ルールの正当性を承認するためのルール)を言語的に同定してしまうと、今度は、その同定=言語化が、慣行の形態を変化させてしまうかもしれず、そして法の一次ルールの形態も変化させてしまうかもしれない、という点です。

 さて、二次ルール(メタ・ルール)を言語化すれば、それは一方では、一次ルールの存在に「妥当性」を与えますが、他方では、一次ルールの存在に、それまで妥当性を与えていたはずの「慣行」を変更してしまう可能性もあることになります。

 すると問題は、もともとあった「一次ルールを正当化するための非言語的な慣行」というものに、どれだけ「妥当性」を認める「べき」なのか、という点ですね。慣行にも妥当性があったのだから、尊重しなければなりません。慣行をまったく塗り替えてもいい、というのが法実証主義だとすれば、その反対に、慣行を大切にするのが「法の支配」の立場です。

 法実証主義は、二次ルールの言語化によって、そのような慣行を自由に変更できる、と考えます。反対に、自然法の立場は、一次ルールを正当化するための非言語的な慣行をできるだけ優先しようと考えます。

 私たちは、二次ルールを言語化する際に、それまでの非言語的な慣行をそのまま分節化することができません。ただ、二次ルールというものは、できるだけその法源として、一次ルールを運営するための非言語的な慣行を重んじるべきであり、その慣行を同定するように言語化されるべきである、という立場をとることはできるでしょう。

 二次ルールを言語化して、一次ルールを修正する立場が「原理的な」リベラリズムであるとすれば、自生的秩序論的な法の立場というのは、法に対する人々の慣行を保守するものです。ただし国家によって生み出された法解釈の慣行というものは、尊重しない立場です。その意味で、自生的秩序の立場は、保守的ではなく、カウンターとしての革命を重んじます。

 現代の思想的問題として論じるためには、ドゥウォーキンのように、リベラリズムを原理的なものとして擁護する立場に対して、どのように応戦するか、ということが議論されるべきでしょう。この問題について、私も考えてみたいと思います。

 

 

■ヒュームは人間本性の弱さから正義を導いた

 

坂本達哉著『ヒューム 希望の懐疑主義』慶応義塾大学出版会

 

坂本達哉様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 主としてヒュームの『政治経済論集』に焦点を当てた思想史研究の集大成です。ヒューム研究の現代的成果を十分に取り入れた緻密な完成度を誇る達成です。

 人間本性、あるいは人間の本来的な弱点という観点から、ヒュームは「社会形成の意義」(これがすなわち、「正義」を意味します)というものを、次のように正当化しました。(1)単独労働では生産力が上がらないので、諸力を結合させる必要がある。(2)自給自足労働では技術が停滞してしまうので、分業でもって技術を向上させる必要がある。(3)生産労働は不安定なので、相互扶助によって安全を確保する必要がある。(64頁以下参照)

 ヒュームは、社会的な結合を不可能にするような争いを避けて、物的財の所有権秩序を築くことが、正義にかなうと考えました。ヒュームにとって、所有権秩序の問題は、正義の中核的な問題です。正義はこの場合、経済的協業によって、社会的な富を形成することにあるといえるでしょう。

 人間は本来的に弱い存在なので、社会的協業や社会的結合を必要としている。この論理はしかし、社会的協業や社会的結合をつうじて、そこから最大の経済的利益を得るために、人間は本来的に社会的に生きるだろう、という論理に転化されています。

 ただ、この論理の転化をあまりにも人為的・人工的に考えると、所有権の秩序は、かえって揺らぐでしょう。その都度の具体的な場面で、最大の利益を得るという「経済合理性」の考え方にしたがって、所有権の秩序は、書き換えられてしまいます。そのような恣意性を防ぐために、ヒュームは、正義の諸規則が、社会の歴史的展開を基礎としていること、したがって正義は、漸次的に生成して、規則違反の不都合を緩慢にくりかえしていくうちに、少しずつ変化して確立されていくべきだ、と考えました。社会には「黙約としてのコンヴェンション」といものがあって、そのコンヴェンションこそが、私たちの文明を方向づけている、という考えるわけです。

 人間本性と、富の最大化と、コンヴェンション。この三つが組み合わされたところに、ヒュームの正義論が生まれていると考えられます。

 ある意味で、ヒュームの正義論は、成長論的な正当化論なのですね。

 ヒュームの考え方は、経済的な意味での自由主義を擁護することになりますが、しかしこのヒュームの擁護論は、現代のリベラリズム、例えばロールズやドゥウォーキンの理論とはだいぶ異質です。

 なぜ、富の増大は、正義の問題となりうるのか。あるいは富の増大が正義ではないとすれば、富の増大は、それ自体が独自の価値として、正義とバランスをとるべき問題とみなしうるのか。この問題に応じることは、現代のリベラリズムと経済学的正義論のあいだの根本問題といえるでしょう。

 (この他、ヒュームの労働観については、とりわけ102, 110頁以下が重要なまとめになっています。)

 

 

■出版は闘いである

 

西谷能英著『出版文化再生 あらためて本の力を考える』未来社

 

西谷能英様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 約15年間、雑誌『未来』に掲載された西谷社長のエッセイ集です。出版文化の現状をめぐって、西谷社長は、いつも厳しい態度を示されてきました。その対峙の仕方に、いつも敬服いたしております。出版文化を守る、あるいは担うという、活動へのコミットメントが伝わってきます。

 これまでも、雑誌『未来』を通じて拝読してきましたが、文章に入魂するというその迫力から、私は多くを学んでおります。

 この15年間で、出版をめぐる環境は大きく変化しました。インターネット、オンディマンド方式、トーク・セッション、新しい流通のかたち、等々。そのなかでも未来社独自の「テキスト編集マニュアル」の提示によって、本の制作費を格段に安く抑えることができるようになったというのは、ある意味で革命的な取り組みではなかったかと思います。

 テキストの形式を出版社の側から提示するというのは、著者の側も編集者としての能力を部分的に身につけることを意味します。それは重要な技術であるでしょう。

 この他、沖縄問題への取り組みや、折原ヴェーバー論争本の刊行など、改めて、西谷社長の取り組みの意義を発見いたしました。「出版とは闘争である」という、帯に書かれた言葉が、まさに当てはまる本です。

 

 

■国を愛してこそ、国の外部に感受性が広がっていく

 

大澤真幸著『近代日本のナショナリズム』講談社メチエ

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 大澤社会学、ナショナリズムをめぐる最新の論文集です。

 3.11大震災と福島の原発事故を受けて、諸外国政府は心温まる同情の念を示し、日本を支援してくれました。それはナショナリズムが可能にした、「外部の他者への感受性」であったのではないか。そうだとすれば、国家は、私たちの感受性の拡張装置として、実はすぐれたものである、ということになります。

 興味深いのは、日本人の社会意識構造として、ナショナリズムの意識と言っても、外部に開かれていくものと、そうでないものがある、という指摘です。

 第一のタイプとして、自国への愛着を通じて、外国人と積極的に交流する人たちがいます。常識的には、身内を愛する人は外部の人々を敵対視する傾向にあると考えられます。しかし、意識調査では、日本に強い愛着をもっている人たちは、海外の人たちとの交流に積極的です。

 第二のタイプとして、自国へのプライドをもつがゆえに、外国人との交流に消極的な人たちがいます。自信の強い人、あるいは自分に自身がもてない場合でも、自国に自信をもつ人。そういう人たちは、あまり海外に対して開かれていかない傾向にあるようです。

 国を愛するといっても、国に対して「愛着」をもつのか、それとも国に対して「プライド」をもつのか、という違いがあります。愛着というのは、自分の生活を肯定してくれるなにかですね。それに対してプライドというのは、自分の生活を肯定するなにかではなくて、自分の精神を奮い立たせるなにか、ですね。この違いは、海外に対する対応の違いとなって、さまざまなかたちでナショナリズムを駆動するのかもしれません。

 

 

■低所得層が増えているのに、家賃は上がっている

 

平山洋介著『都市の条件』NTT出版

 

平山洋介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 都市の住宅環境の変化と、人々のライフコースの変化の関係を論じた好著です。いろいろなデータが示され、最新の住宅事情をめぐって、事実に裏付けられた分析から、明快な結論に至ります。

 それにしても、結婚しない人が増えています。1980年から2005年にかけて、30代後半の人で結婚している人は、80%から約60%にまで減っています。晩婚化ということなのですが、生涯未婚率も増えています。

 こうした事情は、さまざまな要因が重なって生じていると思いますが、その一つとして、しばしば若者たちは、「パラサイト・シングル」を楽しむようになった、ということが言われています。親に寄生しながら独身貴族を楽しむ人たちですね。

 ところが本書の分析が示しているのは、「パラサイト・シングル」を都心で謳歌している人たちは、少ないという事実です。「パラサイト・シングル」はどこにいるのか、と言えば、郊外や田舎です。東京の奥多摩のような、農村・山間部では、「パラサイト・シングル」の割合が高い。農村・山間地域では、若者の雇用そのものが少なく、賃貸住宅も少ない。だから若者は、結婚するまでパラサイトするしかない、ということになるのでしょう。

 「パラサイト・シングル」というと、親元で暮らして、贅沢品の消費に没頭している、というイメージがありますが、そうではない。むしろ、住環境と雇用環境の貧しさから、パラサイトせざるを得ないのが現実だ、というのが本書の分析です。

 ただ農村・山間部というのは、若者の人口も少ないでしょうから、例えば東京都に暮らす若者全体のライフ・スタイルとして、贅沢なパラサイト・シングルが増えた、ということはいえるかもしれません。通時的な分析も必要でしょう。

 もう一つ、興味深いのは、1988年から2008年にかけて、首都圏では、一ヶ月あたりの家賃が五万円以下の物件が、約300万戸から約150万戸へと、半減しているにもかかわらず、年収300万円以下の世帯は、218万世帯から356万世帯に激増している、という点です。この20年間で、住宅は需給のバランスを失ってしまい、所得と住宅のミスマッチが進んできた。これは自生的な反秩序である、ということができます。

 良質の低家賃の住宅が欠乏してきたために、若者たちは結婚を遅らせ、また子供を育てるインセンティヴを殺がれているのかもしれません。少子化を防ぐためにも、いま、抜本的な住宅政策が必要とされていますね。「自生化主義」という発想から、低家賃の住宅供給について考えてみなければなりません。

 

 

■中絶の自由を認める際の「権利」とは

 

井上達夫編著『人権論の再構築 人権論の再定位5』法律文化社、2010

 

井上達夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 2010年に刊行された本ですが、研究会でご恵存いただいて、しばらく実家に置き忘れていました。いま改めて読んでみました。とても刺激的です。

 第二章、山根純佳著「人権は誰の権利か 女性の人権と公私の再編」について。

 家庭を「非政治的領域」と位置づける「公私二元論」では、家庭内暴力などの問題をたんに「私的」な問題とみなしてしまい、女性を解放するという関心に照らしてみると、問題を孕んでいます。

 公民的な生き方を称揚する「政治」理論ではなく、私的領域における「正義」の要求をかかげるリベラリズムこそ、家庭という私的領域における男女間の権利平等を問題にしうる、ということになるでしょう。

 この私的領域における権利平等、あるいは女性の権利において社会的に問題となるのは、例えば「中絶の自由」です。中絶の自由は、胎児に対する女性の権利ではなく、「家父長制」に対する女性の権利である、というフェミニズムの主張は、どこまで妥当性をもっているでしょうか。

 ドゥウォーキンは、この問題に取り組んでいます。人が子供に投資しようとする行動は、「生命の神聖さ」、あるいは本来的価値を大切にするがゆえの行動であり、ある種の宗教的信念であると考えられる。そのような宗教的信念に基づく中絶は、プライバシーの権利によって擁護できる、とドゥウォーキンは考えます。

 しかし山根論文は、こうしたドゥウォーキンの主張が、中絶を認めるにしても、結局のところ、望まない妊娠をした際の責任(心理的負担)を、すべて女性に負わせてしまう点で、望ましくない、と主張しています。

 中絶は、女性の権利というよりも、「男性と女性の権利」+「それにともなう責任の平等」でなければならない、ということになるでしょう。

 そうすると女性の「人権」というものは、たんなるプライバシーに関する女性の権利という一面的な考え方を超えて、再規定していかねばならない。男性にも妊娠させた責任をしっかりと負わせなければならない。ただし、そのためにプライベートな生活を社会がよく監視すればよい、ということにはならないでしょう。本論文では、実践的には、ジェンダー間の平等を、広く社会的に支援していくことが望ましい、と主張されています。

 なるほど、です。では、望まない妊娠や、中絶に対する男女間の心理的負担を、実質的に平等にするところまでもっていくには、どんな社会的支援が可能でしょうか。いろいろと考えさせられました。

 

 

■将来世代の権利を代理するエイジェンシーが必要

 

愛敬浩二編著『人権の主体 人権論の再定位2』法律文化社、2010

 

愛敬浩二様、吉良貴之様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

第三章、吉良貴之著「世代間正義と将来世代の権利」を拝読させていただきました。

 

 「脱」原発をめぐる思想的な問題の一つは、将来世代に核廃棄物を残してよいのか、というものですね。この章では、将来世代の問題を考えるための理論的な道具が、さまざまに紹介され、まっとうな結論が導かれています。

 興味深いと思ったのは、アーネスト・パートリッジの議論の紹介です。パートリッジによれば、将来世代の権利論にとって、難点とされているのは、四つあります。しかしどれも決定的な困難ではなく、将来世代の権利は可能なかぎり認められるべきだ、という理路が示されます。

 一つは、時間的な遠隔。しかし問題は「時間」そのものではなくて、私たちの予見能力だ、ということになります。第二に、誰も代弁者がいない、という問題。これは私たちの誰かが「代理」で将来世代を代弁することができれば解決されます。ここで重要なのは「代理する」ための実践や制度です。どのような仕方で、代理を構成するのか。それが正義の社会構想にとって、大きなカギとなるでしょう。第三に、将来世代はまだ存在しない、という困難です。しかし例えば、死者に対する権利を私たちが認めるように、非実在に対しても、それが存在した、あるいは存在するであろうという自然な根拠をもとにして、権利を認めることはできるでしょう。第四に、将来世代の権利が、いつ誰の権利になるのか、特定できない、という問題があります。しかし私たちは、例えばキャンプ場を使ったら、次に使う人が特定できなくても、清掃しておくことを義務として求めることができます。このような義務の観念によって、将来世代に対する私たちの義務を考えることはできるでしょう。

 本論文では、このパートリッジの議論が批判され、法人格のような擬制でもって将来世代の権利を擁護する方向に、議論が展開されています。

 将来世代と言っても、どこまでの範囲で確定するのか。それは結局、いまの段階では多くの場合、国民国家をベースとした共同体の紐帯を前提とする範囲になるのかもしれません。しかし共同体の範囲の問題は、将来的には変容していくでしょう。

 

 

■リーマンショックを分析するツールとしてのマルクス主義

 

デヴィッド・ハーヴェイ『資本の〈謎〉 世界金融恐慌と21世紀資本主義』森田成也、大屋定晴、中村好孝、新井田智幸訳、作品社、2012

 

森田成也、大屋定晴、中村好孝、新井田智幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 リーマンショック後の経済危機を、強靭な思考力で分析しています。なぜ私たちは、経済危機から逃れられないのか。この問題を、マルクス経済学の枠組みを用いて、これほど豊かに展開できる人は、おそらくハーヴェイ以外にいないでしょう。マルクスの分析ツールは、依然として有効であり、また応用可能であることが、ハーヴェイの手腕によって示されます。

 本書の最後に、「何をなすべきか? 誰がなすべきか?」という章があります。よく、マルクス主義関係の本は、現状分析に徹して、実践的な処方箋を与えないものが多いといわれますが、本書は、まさにこの実践的な問題に、多くの思索を残しています。この思索を読むと、マルクス主義の本質が、よく分かります。

 現代のマルクス主義は、政府による垂直的なシステムを批判して、自律分散型の、自己統治的な生産者と消費者の集合体のネットワークというものを、構想しています。しかしこの理想は、無政府主義的伝統とのあいだに、一定の収斂を生じさせているでしょう。ハーヴェイは、この傾向を認めた上で、ラディカルな平等主義や、生産の組織化、労働過程の機能の仕方などが、練り直されなければならない、と指摘しています。ケインズ主義は、労働者にとって解決になっていない、という現実を認識した上での指摘です。

 そうなると、現代のマルクス主義は、ある意味で、新自由主義の一種に近いマクロシステムを容認することになるかもしれません。それはすなわち、中間集団コミュニタリアニズムを中核とする自生的ネットワークという理想です。そのように理念に立脚した上で、では、新自由主義と何が違うのか。それはすなわち、資本に強奪されない領域を増やすべきだ、とする点でしょう。

 この問題について、私は最近、「アンダーグラウンド」という概念を発展させて、考えています。

 

 

■優先主義者と平等主義者の対立は根本的なものではない

 

宇佐美誠『その先の正義論』ランダムハウス・ジャパン

 

宇佐美誠様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 大学生に読ませたい名講義、学生たちとの議論が豊かに展開されています。現代の規範理論に入っていくための、最初のきっかけとなるだけでなく、いくつかの重要な問題について、根本的な思考をかきたてられます。

 例えば、パーフィットの「優先説」というものがあります。貧しい人がいっそう利するように配分するという場合、それは「平等」の理念に基づくというよりも、貧しい人を「優先的」に扱うべきだという理念、つまり「優先説」に基づいている、と考えることができます。

 しかし「優先説」は、ある時点(t0)から、ある別の時点(t1)にいたるプロセスを前提とした上での議論ですね。ところが、パーフィットが優先説と区別しているところの、「目的論的な平等主義」というものは、そのような時間のプロセスを捨象して、本来あるべき社会の目的を問題にしています。例えば「人生のスタートライン」を平等にすべきかどうかという問題は、実践的にはともかく、理論的には、時間プロセスの問題ではありません。すると、そもそも優先説の立場をとることができません。

 機会の実質的な平等を問題にする場合には、優先説を「思想的立場」としてとることは、あまり根本的な議論ではないでしょう。というのも、優先説は、最初の時点(t0)での分配が、どのように評価されるかについて括弧に入れたまま、分配の仕方について判断しなければならないからです。むしろ、根本的に問うべきは、ある一時点(t0)での分配が、いかなる意味で不正義なのか。あるいは正義に適っているのか。この問題への評価に応じて、ある場合は「優先説」をとる、別の場合には「優先説」をとらない、という判断をすることが、リーズナブルな判断であり、健全であるようにみえます。

 すると、「目的論的平等主義者」なのか「優先主義者」なのか、という区別は、根本的な思想のスタンスを問う場合には、あまり重要ではないでしょう。ただ、ロールズの格差原理は、まさにこの時間のプロセスを問題にしている側面があるので、この問題をロールズに則してもっと考えなければなりません。

 とても啓発されました。ありがとうございました。

 

 

■階級闘争を視軸にして『資本論』を読む

 

デヴィッド・ハーヴェイ『〈資本論〉入門』森田成哉、中村好孝訳、作品社

 

森田成哉様、中村好孝様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 『資本論』が読まれるなか、一つの決定的な入門書がでました。著者のハーヴェイは、新自由主義批判など、現代の経済社会の問題を深く分析している経済思想家です。そのハーヴェイによる、現代の資本主義を読み解くための、『資本論』講義です。

 入門的な本ではありますが、いっさいの妥協はありません。アメリカ人の、とりわけ若い学生や労働者たちにとって、現在、どんな論点が重要なのか。それは日本人の関心と、完全には重ならないかもしれません。ですが現代の社会問題との対峙のなかで、濃密な議論が続きます。

 日本人はこれまで、『資本論』の最初の部分、貨幣の物神性のところまでの人文的・哲学的な部分を重視して、そこに文学的な関心や、あるいは社会理論的な関心を持ち込んで、自由に読むという技芸を争ってきたところがあります。しかし本書は、この最初の部分を飛ばして、資本主義のもとでの「階級闘争」の問題に、ストレートに迫っていきます。

 ハーヴェイが重視しているのは、『資本論』のなかの「労働日」の章であり、これは、絶対的な剰余価値をめぐる階級闘争の問題に関係しています。また、これに関係しているのが「略奪による蓄積」であり、それは、資本主義の「本源的な蓄積」段階に限定されるものではなく、現代の資本主義過程においても生じていることが、問題視されています。

 訳者解説では、『資本論』を理解するための、さらなる文献案内も記されています。私も、自分なりに『資本論』をどう読むかについて、しばしば考えます。参考になる一冊です。

 

 

■将来世代を代弁して、誰かがその利害を語らなければならない

 

大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ 3.11後の哲学』岩波新書

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 3.11後に考えるべき、いろんな論点が提示されています。将来世代を代弁して、誰かがその利害を語るような民主主義のシステムを考えることはできないか。それがラカンの試みを導きの意図として語られている点が、とりわけ面白いと思いました。

 以下、ウェブ論座やシノドス・ジャーナルに載せた拙文(本書の紹介の部分)を、再録します。

 

 エコロジカル・フットプリントが示しているのは、地球に負担をかけない生活の水準である。だが世界全体で、人類はすでに、資源環境を維持できない水準に達している。このまま資源を浪費していくと、どうなるのだろう。

 資源はいずれ枯渇する。それが100年先だろうか、1,000年先だろうが、私たちにとっては、どうでもよいことかもしれない。多数派がそのように考えるかぎり、民主主義の枠組みでは、制度を変えることはできない。だが私たちは、将来世代への責任を負っているのではないか。

 ロールズはそのような関心から、「正義の理論」の前提を修正した。ところが本書の中で大澤真幸は、ロールズの修正の試みが、失敗であったと批判する。高レベル放射性廃棄物は、10万年程度は、生物の生存権から隔離されていなければならない。しかし10万年先の将来世代に対して、私たちはいかなる責任を負っているのか。それはロールズが考えるような、過去から受け継いだ遺産を将来世代に継承する責任がある、という程度の考え方では解決できない。

 私たちが過去から受け継いだ遺産の一部は、「負の遺産(資源環境の悪化、あるいは放射能/放射性廃棄物)」である。この遺産を10万年後の人類に継承していく、あるいはさらに多くの負の遺産を加えていくための正当化根拠は、いかなる倫理的基礎に基づくのか。本書の最後に、そのような問題を解決するための「委員会」のあり方について、ラカンが実際試みた事例を参照に、強度の思考がつづく。きわめて思考喚起的な一冊である。

 

 

■ケネーの韓国語訳

 

Francois Quesney, Tableau Economique、キム・ジェフン訳、韓国語、ZMANZ社、2010

 

キム・ジェフン先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 フランソワ・ケネーの最重要著作、経済表が、韓国語訳として刊行されましたことを、心よりお喜び申し上げます。

 本の色彩と、文字のタイプが、美しいです。

 同社からは、このシリーズで、本当にたくさんの経済書が、ハングル語に翻訳されているのですね。翻訳の努力に圧倒されます。

 ZMANZ社のホームページはこちらからどうぞ。 www.zmanz.kr

 またお会いできることを楽しみにしています。

 

 

■小学校の現場を伝える記録

 

平田満『僕の教師修行』教育工房ブックレット16

 

平田満様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 平田先生は、杉並区立高井戸小学校教員として勤務されています。本書は、氏の教育現場からの報告の集大成です。習熟度別指導は、教育現場の実態に則していえば、あまり成果を挙げていない、とのことですが、現場でのいろいろな努力、あるいは教育指針に対する提言が、本書でなされています。

 本書の大半は、一年生から六年生までの、授業の仕方についての提案や記録なのですが、最後に、全体をまとめるかたちで、教育論が展開されています。

 例えば、画一的な教育からの脱却を図るために、習熟度別授業が提案されてきたわけですが、しかしその実態は、少人数で、それぞれの能力に応じた、画一的な授業を行うということになってしまっている。これは矛盾であって、むしろ、いろいろな習熟度の生徒たちが、画一的ではない一つの授業を受けることのほうが、多様性があっていいのではないか、ということですね。その論理、分かります。この他、教育理念をめぐって、いろいろな提案や批判が提起されています。刺激的に読ませていただきました。

 

 

■「自然の他者性」が、自然を搾取する人間の制約条件となる

 

宇野重規、井上彰、山崎望編『実践する政治哲学』ナカニシヤ出版

 

井上彰様、桑田学様、山田陽様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 桑田論文は、環境問題をめぐって、グリーン・リベラリズムの現代的展開を紹介・検討しています。サイモン・ヘイルウッドの「自然の他者性」というのは、理論的に面白いですね。しかしこうした「反近代主体」的な自然理解も、私たちは欧米から学ばなければならないというのは皮肉です。日本で誰か、現代の環境思想家が主張してもよさそうな議論ですね。

 自然の「他者性」というものが、いったい、どの程度の制約条件になるのか。それは、その地域の具体的かつ文化的なコンテクストに依存しているのでしょう。「他者性」とは、共同体としての価値に基づく理解を前提としています。すると、コミュニタリアニズムは、「共同体にとっての他者としての自然」という観点から、グリーン・リベラリズムの開発志向に対して、制約条件を提供することになるかもしれません。それでもヘイルウッドは、「自然の他者性」という理念装置によって、リベラリズムの思想を発展させているようです。

 私は「自然の他者性」ではなく、「自然の多産性」に注目して、その多産性を介助する人間の役割というものを考えます。「自然の他者性」という場合、その「他者性」を、私たちがどのように尊重すべきなのか、その場合の人間像はどのようなものになるのか、という点は、探究されているのでしょうか。このあたり、興味があります。

 

 山田論文は、「熟議民主主義」というものが、これまで例えばコーエンにおいて、社会主義の経済統治術と結びついてきたことが指摘され、現在では、その結びつきが自明ではなくなり、「公共圏」という概念装置でもって、とにかく、社会主義的な経済統治も一つの選択肢でありうることを含めて、平等な討議空間で話し合って決めよう、という論理に変容してきたことが、追跡されています。

 現代の熟議民主主義は、熟議そのものを重んじているようですが、それはある意味では、経済システムに対する明確なビジョンはないということであり、何をどのように熟させるのかについて、指針をもっていません。それでも「熟議」は、民主主義の過程に正統性を与えるプロセスなので、それが「ミニパブリック」といった、小さい討議場での討論を活性化させる装置によって補強されることは、それ自体として望ましい、ということになるでしょう。

 

 井上論文は、ロールズの理論前提に置かれていた人間像が、合理的に人生設計をすることができる人だとする点で、すでに古い思考になってしまった点を指摘しています。そして、行動経済学の知見などに基づく新たな人間像を、新しい規範理論の基底に据える必要がある、と指摘しています。そこで出てくるのが、スキャンロンのいう「適宜性」と、アーヌソンのいう「次善の選好」です。

 ここで問題になっている人間像は、「マキシマイザー(極大化行動者)」と「サティスファイサー(満足人間)」を区別した場合に、後者の理想を指している、といえるかもしれません。

 多くの人は、類型としては、「満足人間」であり、とくに極大化行動をとるために、最大限のコストを支払っているわけではありません。そのような満足人間でも、担いうる「責任」を、私たちは制度的に構成していくべきで、極大化しなければ十分に担うことのできない責任(例えば、大学生の奨学ローンなど)は、制度的に改良の余地あり、ということになるでしょう。これはつまり、ある種の温情主義というものが必要で、選択肢の制度的提案を人工的に構成する「温情的リバタリアニズム」のようなシステムを喚起します。

 

 いずれもレベルの高い、現代的な意義のある論文でした。大いに勉強になりました。

 

 

■第三の審級が世界史を動かすわけ

 

大澤真幸『〈世界史〉の哲学 古代編』講談社

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本当にスリリングに読ませていただきました!

 とくにアウシュヴィッツの経験です。ハンス・ヨナスによれば、若いユダヤ人女性の日記に、次のような一節があるという。

 「あなた[=]は私たちを救うことができない。そうではなくて、私たちが、あなたを救わなくてはならないのだ。そうすれば、結局、私たちは自分自身を救うことになる・・・。」

 神の無力性と無能性の問題ですね。実は、十字架へ向かうキリストにも、ヨブや、あるいはアウシュヴィッツに収容されたユダヤ人と同様の、無意味な苦難があったと考えられます。

 神は、嘲笑されながら死んでいくほど、惨めな人間であった。この「死」の事実が、キリスト教徒を、ある共同体的な親密的空間(「故郷」)の想定を越えて、ある疎遠な居心地悪さの世界に投げ込みます。そして、めぐりめぐって、共同体の特殊主義を克服する普遍主義、さらには資本主義の普遍的な運動を生み出していくことになります。その論理は、本当に不思議なのですが、世界史を運動させる最大の原動力となってきました。

 その原動力について考えてみると、それは私たちの行為が、最終的に幸福なかたちで報われるという、そういう幸福を約束する宗教の仕業ではありません。幸福なかたちで報われることを保障するのは、キリスト教の神ではありません。キリスト教は、そのような「幸福を保障する空間」としてあるのではなく、私たちにとって「他者」のような存在として、存在している。

 だからこそ、イエス・キリストは、あらゆる死のなかで、最も惨めな死に方を示さなければならなかったというわけですね。

 私たちが、「他者」としてのキリストを救ってあげなければ、私たちも救われない。すると問題となるのは、この他者性に対して、どのように向き合うか、ですね。

 他方で、キリストの死は、最も悲惨であるからこそ、その死は、高貴な人間の悲劇という様相を超えて、超人間的なレベルにまで昇華され、「崇高な死」となっています。

 ここではつまり、「他者性」の問題と、特殊性を超える「普遍化」の問題と、「崇高化」の問題が、キリストの死において、すべて重なっています。この三つの特徴において、対比されている理念は、共同性の要請(透明なコミュニケーションによってコミューンのような人間関係を作りたいという希求)、親密圏の要請(故郷のようにくつろぐことのできる空間に安住したいという欲求)、自分の人生が最後に報われることを保障してくれる神の要請。これら三つの要請であるでしょう。こうした集団形成を超える要素を、キリストの「死」が持ちえたこと。これこそが歴史のドラマ(ミステリー)であり、また資本主義や自由主義の根本的な問題であるでしょう。共同体と親密圏と幸福の保障。このような人間の欲求を、キリスト教は超えていきます。

 「第三者の審級」というものが、一つの閉じたシステムを形成するのではなく、その社会を普遍的なものとして展開し、運動していくという、その論理を世界史的に見た場合の、最も重要な論点が、キリストの死にあると考えられます。

 

 

 

■障害と社会の研究拠点が、よく分かる

 

立命館大学生存学研究センター編『生存学』vol.3

 

立岩真也様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ロング・インタビュー「生存の技法/生存学の技法」立岩真也×天田城介を、読みました。長いですが冗長なところはなく、現在の研究動向について、さまざまな研究論文に触れつつ、この分野の状況が一通り語られています。

 研究者として、どのようなアプローチで研究すべきなのか。あるいは研究史を踏まえる際に、左派がどうなったのか。この分野に入っていくための入門的な示唆がたくさんあります。

 地方分権の問題で、結局、財政難だから、財源を地方に移譲して、地方ごとに「保険」「互助」というものを考えてもらう。現在の動きは、左派の福祉国家論者たちを含めて、そのような方向に向かっているわけですが、それに対して批判的なスタンスが語られています。うまくいく地方と、そうではない地方が生まれる。財源の豊かな地方が「分権」を求めるのは、権力関心からして当然のことで、では財源の乏しい地方はどうなるのか。

 地方分権化する場合は、財源の豊かなところと貧しいところを組み合わせて一つの「地方」にするような、そういう工夫がないと、人々は、財源の豊かな地域に移住して、福祉の恩恵を受けようとするかもしれません。そうなると結局、私たちの生活の福祉水準は、下がるかもしれません。

 

 

■思想統制が弱いところで、正統な系統図は多元化する

 

平山朝治「日本神話にみる自由主義のなりたち」筑波大学『経済学論集』64

 

平山朝治様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 記紀編纂において、どのような思想統制が行われていたのか。701年に統制が緩和された、ということですが、それによって結局、持統によって改変された「皇統譜」は、絶対的な権威をもつには至らなかった。それで『日本書紀』には、いろいろな異伝、異説が収録されるようになった、ということですね。

 レオ・シュトラウスも指摘するように、迫害を受けた者は、難解なテキストのなかに、秘儀を入れるという手法を発達させていきます。日本においても、執筆者たちは、自分の本が禁書にならないように、権力者が容認するもののなかに、ある別の内容を含めるというテクニックを発達させてきたのでしょう。

 いずれにせよ、思想統制が弱くて、自由主義的な「寛容」の理念があるところでは、正当な権力者の系統図というものが、複数、描かれることになります。『日本書紀』は、そのような複数性を保持しているので、リベラルな編集方針だった。これに対して『古事記』は対照的だ、というわけですが、とても興味深いです。

 

 

■北海道の風力発電の可能性はどこまであるか

 

吉田文和『脱原発時代の北海道』北海道新聞社

 

吉田文和様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 脱原発と自然エネルギー導入のための、さまざまな具体的取り組みが紹介されています。北海道に暮らす皆様に、ぜひ読んでいただきたい本です。

 北海道で、最もコストが低い自然エネルギーは、風力。稚内市の宗谷岬ウィンドファームでは、57基の風力発電が、57千キロワットの電気を作っています。この稼働率は、日本一だそうです。この他にも風力発電は、北海道のいろいろな地域ですすんでおり、187万キロワットくらいの発電が、北海道全体で見込むことができるようになるようです。ところが北電は現在、全体で従来の35万キロワットに加えて20万キロワットの枠を設け、合計で55万キロワットの風力発電を、抽選で買い取る計画というわけです。風力発電の実際の電力供給力は、まだまだあるのです。単純に考えて、買い取られる電力の、三倍はあるようです。デンマークでは、全消費電力の20%が風力発電といわれますが、北海道でもそのような水準にまでもっていけるのかどうか。それが技術的にも政治的にも問われているのではないでしょうか。

 

 

■想定以上に長生きしたら、社会を達観する方法がほしい

 

ジグムント・バウマン『《非常事態》を生きる』高橋良輔/高澤洋志/山田陽訳、作品社

 

高橋良輔様、高澤洋志様、山田陽様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 現代を代表する思想家、バウマンのインタビュー集であり、バウマン思想の全体像への入門書となっています。原書のタイトルは、「残りわずかな時を生きて(Living on borrowed time)」ということですが、本書を読んで、バウマンという思想家は、40歳を過ぎた、ある意味ですでにもう十分に生きた人間が、なお人生と向き合うために、社会を批判的に認識する方法を開発した人なのだな、と改めて感じました。

 近代社会というのは、「死」に十分な意味を与えることができない。だから近代人は、できるだけこの幸せな人生が長く続けばいい、と考える。SF作家のミシェル・ウエルベックの著作『ある島の可能性』を紹介しながら、バウマンは、近代社会というものが、死の問題が、はたして私たちの幸福を汚すのかどうか、と問いかけます。40歳を過ぎても、この問題を考えないでいると、突然、人生の終局に対面することになる。そしてオロオロする。

 オロオロしないためには、「死」への意味づけを隠蔽している「近代社会システム」というものを、総体として相対化しておかないといけない。そのための歴史認識の方法をもたなければならない。あらゆる政策、あらゆるイデオロギー、あらゆる規範を相対化して捉える社会学の技術を身につけなければならない。そうした認識でもって、人生を「達観」できるようになったら、私たちは、十分な余裕を持って、自分の「死」と向き合うことができる。そういうものとして、バウマンの言っていることを読むと、とても面白いです。

 実際に、福祉国家をどうするか、という問題に対しては、脱領域的でコスモポリタンな非政府組織に期待するという、いわば「善き帝国」の実践を展望するということになります。

 もう一つ、正しい観察がありました。こんにち、「左派」であることは、「右派」が成し遂げようとしてできなかったことを、より完全に実行できることを意味する、という指摘です。(97) バウマンは、従来型の左派思想にコミットメントせず、新自由主義を達観的に批判しています。それは続くだろうし、非常事態としての危機も続くだろう、という諦観です。

 

 

■調和のとれたウェーバー理解と倫理学の根本問題

 

横田理博『ウェーバーの倫理思想』未來社

 

横田理博様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 著者のこれまでのウェーバー研究の集大成です。倫理学の根本問題に、もっとも困難ではありますが、他の学説・倫理思想との粘り強い比較を通じて、ウェーバーの思想の本質を明らかにしています。

 私は拙著『社会科学の人間学』で、「責任倫理」の問題を分析しましたが、本書では「心意倫理(信条倫理)」の概念が徹底的に分析されています。また、同胞愛、神義論、ルサンティマンなどの重要な概念が、徹底的に探究されています。ウェーバーを倫理思想家として理解するための、必読の研究書といえるでしょう。

 その関連で、山之内靖のウェーバー理解に対する批判が展開されていますが、それはある意味で適切であり、正当なウェーバー理解に基づくものです。ただ本書で著者は、独自の観点から鋭くウェーバーの思想を再構成しているのではなく、客観的で一般的なウェーバー理解を提供するという仕方で、ウェーバーの思想が再構成されています。

 するとウェーバーというのは、さまざまな思想、さまざまな階層の人々の生き方に、「共感」を示している。その上で、あれも「共感」できる、これも「共感」できる、しかしそれぞれの立場は緊張関係に置かれており、「神々の闘争」を避けることができない、という具合の態度表明になるわけです。しかし、どの立場にも「共感」できる人というのは、たんなる優柔不断な価値相対主義者(よく言えば、開かれた文化多元主義者)でないとすれば、どんな精神の持ち主なのか。それはある意味で、山之内さんのいう「精神的貴族主義」に近づくことになり、それをウェーバーの具体的テキストに読み込むという方法は、一つの解釈たりえるでしょう。

 それよりもなによりも、同胞愛や神議論やルサンティマンといった概念の奥深さを、あらためて理解しました。とりわけ、ウェーバーのニーチェ理解が誤っていた、というのは衝撃的です。本書の体系的な研究成果から、多くを学びました。

 

 

■草食系と異性恐怖症

 

田村公江/細谷実編『大学生と語る性 インタビューから浮かび上がる現代セクシュアリティ』晃洋書房

 

川畑智子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 以前に、小生の授業でこのテーマをめぐるアンケート調査を行っていただいたことがありましたね。その結果は載っていませんでしたが、同プロジェクトの成果の一部が本書にまとめられています。

 本書の前半(第一部)は、大学生と語る「性」ということで、いくつかのインタビューが載っています。本邦初の試みだそうで興味深いです。

 また、第二部に収録されている川畑先生の「ドメスティク・バイオレンスが女性の性意識に与える影響」を拝読しました。幼いころに、アルコール依存症の父親からDVを受けた女性が、大学生になって、どのように男性とコミュニケーションを成立させていくのか。インタビューからさまざまなことが明らかにされています。

 男性恐怖症というか、異性とのコミュニケーションが怖くて苦手というのは、DVを受けなかった場合にも、起こりうるかもしれません。恐怖症は、DVとどの程度関係しているのでしょう。

他方で最近、「草食系男子」ということが語られていますが、それは本書のなかでも森岡正博氏の見解として紹介されているように、異性に対してガツガツしていない、傷つくこと/傷つけることが苦手、異性を異性として見る前に「一人の人間」としてみている、というような特徴をもっているようです。

 すると、草食系と、異性に対する恐怖症との関係は、どの程度密接なのでしょうか。DVの顕在化と、草食系の浸透は、同時代的な現象として、どのように関係しているのでしょう。関心がわきました。

 

 

■律法をもつことの進化論的戦略

 

橋爪大三郎/大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書

 

橋爪大三郎様、大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本当に面白いです。新書大賞をとるだけの、充実した内容とユーモアのセンス。キリスト教を知らなければ、近代社会を理解することはできないし、また近代社会を乗り越えることもできない。キリスト教を知らずに近代化してきた日本人にとって、本書は、さまざまな意味で必要不可欠な考察を提供しています。

 日本人は、神様は大勢いたほうがいいと考える。それは神様が「人間みたいなものだ」と考えるから、というわけですね。けれどもキリスト教の場合の神は、よそよそしい。

 丸山真男の分類では、「神が宇宙を創造する」(キリスト教)、「神が宇宙を産む」(中間諸形態)、「宇宙は植物のように生成する」(日本の古事記)、という三つのパタンがある。キリスト教と日本の宗教は正反対の考え方に立脚している。

 キリスト教にとって、「神」とは、知能が高くて、腕力が強くて、エイリアンのようによそよそしい。けれどもイエス・キリストによって、そのよそよそしさが破られ、「愛」の関係が生まれる。そこに劇的な転換があるわけですね。

 ユダヤ教の「律法」を説明する際に、「もしも日本がどこかの国に占領されて、みんながニューヨークみたいなところに拉致されたら?」という思考実験は、とても面白いです。100年経っても子孫が日本人のままでいるためには、どうすればいいか。日本人の風俗習慣をできるだけ列挙して、それを法律化してしまえばいい。例えば、正月にはお雑煮を食べなければならない、そのときに餅は、こういう仕方で切らなければならない、夏には浴衣を着て、花火大会を見に行かなければならない、云々。こういう習慣をすべて法律化してしまえば、日本の文化は、ニューヨークにおいても、そのままの姿で(他の文化と融合することなく)継承されていくでしょう。ユダヤ教というのは、そういう発想ですね。

 それがほんものの宗教になったのは、つまり、国家がなくても、生活習慣を「律法」化しているからであり、国家として失敗しても、いつでも国家を作り直すことができるようになっている。そのようにしてユダヤ人は、民族の一体性を保持することができるわけですね。進化論的な戦略として、律法をもつことは、正しかった、ということでしょう。

 まだまだ紹介したい点はたくさんありますが、ここらへんで。

 

 

■創造的な研究者になるための知恵

 

デイヴィッド・ベイルズ/テッド・オーランド『アーティストのためのハンドブック』野崎武夫訳、フィルム・アート社

 

野崎武夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 全米で20年間読み継がれてきた、アーティストのための手引書です。アーティストだけでなく、創造的な研究をしようとしている学生諸氏にも、読んでもらいたい本です。創造的活動のための知恵が詰まっています。

 

 「人生は短く、技術の道は長く、好機は流れ、経験は頼りにならず、そして判断は下しがたい。」(ヒポクラテス[医師]

 

 いい言葉ですね。

 医者も、弁護士も、アーティストも、ギリシア的に言えば「フロネーシス」を扱う職業で、その困難はいずれも、似ています。

 アーティストは、作品作りが職業として成り立つ可能性が不確実なので、アーティストたちの多くは、途中で作品づくりをやめてしまいます。つぎの努力も無駄になるだろうと思い、やめてしまいます。そうならないために、作品を制作している友達を作ろう、というのが、重要なアドバイスの一つです。

学者も、だんだん論文を書かなくなりますよね。学者の場合も、研究生活の先行きは、どんな友達を持つかに依存しているのではないでしょうか。

 もう一つ、「自分の可能性」を想像する力について。アーティストにとって、これは重要な能力でしょう。かつて、詩人のスタンリー・クニッツは、「頭の中にある詩はいつも完璧である。しかしそれを言葉に置き換えようとすると、抵抗が始まる」と述べたことがあります。これがアーティストにとっての真実なのでしょう。アーティストは、すでに可能性として、自分が偉大な作品を作った夢を想像することができなければなりません。研究者の場合も、そのとおりでしょう。この想像力が先行しないと、創造的な作品は生まれない。

 第三に、アーティストにとって、才能は、必ずしも必要ないということ。

 完璧さを追求しようとすると、人はかえって、活動をやめてしまう。自分の不完全性に耐えられなくなるからでしょう。研究者の場合もそうです。ある程度いい加減じゃないと、創造的な活動を続けることができない。

 第四に、作品が「価値あるものとして承認されること」と、作品が「アートとして認められること」のあいだには、亀裂・断絶があるということ。これは鋭い指摘です。アートというのは、根本的なところで、承認欲求を満たすために生み出されるものではない。むしろ承認とは関係のないところで生み出されなければならない。これは芸術をめぐる、本質的な問題です。

 最後に、大学でアートを学ぶことについて。大学では、教員も学生も、問題をかかえています。むしろ創造的なアーティストになるためには、「自叙伝」を読むことが役に立つ。芸術が生まれるプロセスが書かれているから、というわけです。

 「自叙伝」は、創造的な研究者になるためにも、大いに役立つでしょう。芸術家の一生を描いた伝記(あるいは映画)は、研究者にとっても必要だと思いました。

 いろいろな刺激を受けました。学生に読ませたい、いい本です。

 

 

■「日本は既に終わっていた!」のか

 

大塚英志/宮台真司『愚民社会』太田出版

 

大塚英志様、宮台真司様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 「日本は既に終わっていた!」というこの紹介文のフレーズがいいですね。

 3.11後の日本社会の問題を考えるうえで参考になりました。

これまで、電力会社は「総括原価方式」によって、莫大な利益を上げてきました。けれどもその反面、電力会社の利益は、地方の放送局や新聞に還元されてきたという経緯があります。地方のメディアの大株主は、電力会社。地方の交響楽団なども、電力会社によって支えられてきた、という面があります。

 つまりこれまで、電力会社は、市場競争にさらされない反面、地方の文化興隆のために貢献してきたのであり、いわば、市場原理主義に抗する「地域に埋め込まれた文化経済社会」を象徴する存在であったわけです。これってつまり、コミュニタリアンなどの市場社会批判者たちだったら、電力会社を肯定するだろう、ということになると思うのですが。

 むろん、いま求められているのは、電力会社を徹底的な市場競争圧力にさらして、電力の自由化と発送電分離のもとで、どこまで効率的に電力を供給できるか、ということです。

 これはつまり、新自由主義の企てそのものなのですが、3.11以降、脱原発のためにこの新自由主義イデオロギーを批判する人たちは、あまりいません。不思議です。

 

 

■ハイエクに対する誤解を解く

 

松原隆一郎『ケインズとハイエク』講談社新書

 

松原隆一郎先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 これまで先生が書かれた本のなかで、もっともアカデミックな内容ではないでしょうか。ケインズとハイエクの論争が、とても丁寧に追跡されています。

 むろん、ケインズの思想は、規範理論としてみれば、あまり見るべきものがありません。ケインズの「自由」概念や、「干渉主義」のような理念を研究してみても、それほど深みのある考え方を見いだすことはできないでしょう。ですからケインズとハイエクの対立は、思想的というよりも、むしろ貨幣論や市場理論をめぐる経済学的な次元、あるいは方法論の次元での対立であり、本書の大部分はその対立を解明するために、費やされています。

 ハイエクは一般に、小泉改革に代表されるような新自由主義の論客とみなされていますが、本書はそのような理解に対して、根本的な批判を提起しています。

 

「だが規制や慣行を撤廃せよと説く構造改革ほど、彼の思想から遠いものはないだろう。というのも、ハイエクが唱えたのは中央銀行のみならず民間の銀行にも規制をかけることであったし、慣行を前提にその組み替えを原動力とする自由社会を築くことだったからだ」。

 

 結局、経済思想の威力というのは、その都度の時代の政治的な布置連関を超えて、政策を導くための体系的な解釈装置を提供することにあるのでしょう。そのような装置を用いて、私たちは政策を賢く考えることができるのでしょう。

 

 

■「同盟」と「連邦」の違いについて

 

牧野雅彦『ロカルノ条約』中公叢書

 

牧野雅彦様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 前作『ヴェルサイユ条約』に続くご研究の成果です。とてもすぐれた歴史叙述であるだけでなく、国際秩序はいかにして可能か、という政治思想の根本的な問題に迫ります。

 ナチスが台頭する以前のヨーロッパの国際秩序は、1925年のロカルノ条約によって形作られ、1933年にヒトラーが政権を取り、1936年ごろ(ラインラント進駐)まで続いたと考えられます。

 この秩序をどうみるか。本書の第10章で、この条約に関するカール・シュミットの見解が検討されています。シュミットの洞察力は鋭いです。

 シュミットによれば、「連邦」というのは、「同盟」以上の国際秩序です。連邦は、諸国の法秩序に修正を求め、同質的な国家秩序を単位とします。「連邦」は、政治的・軍事的な秩序であることに加えて、法的な秩序です。そこには「正統な秩序」とはなにか、についての合意が必要です。

 それまでは「力の均衡」が、国際的な法秩序の正統性を担保していました。しかし国民国家の形成・成熟とともに、「民主主義」と「民族自決」の理念が、法秩序の正統性を担保するようになります。神聖同盟やモンロー・ドクトリンは、いずれも「連邦」の特徴を備えています。

 けれども、敗者(ドイツ)に対する無制限の経済的搾取は、「講和」に基づく「正統な秩序」を生み出すことに失敗している(隠蔽している)。

 1926年の国際連盟は、シュミットの見るところ、アメリカの帝国主義統治の一環として位置づけられるのであり、ヨーロッパにおける「真の連邦」ではありません。真の連邦が形成されるためには、フランスとドイツが対等な関係に立って、なおかつ、イギリスとイタリアという第三国が、仲裁・裁判官的な役割を果たす場合でなければなりません。そのような国際関係は、あまりにも理想的かもしれませんが、それが築けたときに、ナチスの台頭を阻止することができたかもしれませんね。そうした可能性が残ります。

 ロカルノ条約をどのように捉えるべきか、という問題は、世界秩序をどのように考えるべきか、という問題に関係します。私たちはナチス台頭の歴史から、学ばなければなりません。

 

 

■「正義」と「ジャスティス」のあいだ

 

仲正昌樹『いまを生きるための思想キーワード』講談社現代新書

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 いつも「あとがき」から読ませていただいていますが、今回はまじめなあとがきでありましたので、かなり気合の入った入門書になっているのではないかと思い、私の研究分野と重なる箇所を読ませていただきました。

 癖のない、初学者におすすめの、信頼できる「キーワード事典」に仕上がっています。

 日本語の「正義」という言葉には、「正義の味方」という用法があり、社会の「善」を体現したヒーローが、世の中を救ってくれる、というイメージがあります。ヒーローは、絶対的な正しい存在で、「絶対善」を体現していなければなりません。

 けれども、そんな人はほとんどいない。マイケル・サンデルのおかげで、日本でも規範理論に対する関心が高まっていますが、サンデルらが用いる英語の「ジャスティス」は、人情に訴えるところがなく、社会の条件のようなものを想定しています。

 いずれにせよ、これまで日本で「哲学ブーム」といえば、人々の心のなかに入ってきて癒してくれるような、「癒しのための哲学」であったようにみえますが、サンデルのおかげで、そうではない哲学のスタイルを、私たちは「ジャスティス」論から学び始めた、といえるかもしれません。「正義」と「ジャスティス」の意味が異なる点に、注意が必要だなと思いました。

 

 

■デモクラシーの再帰的な制度化へ

 

斎藤純一/田村哲樹『アクセス デモクラシー』日本経済評論社

 

斎藤純一様、井上彰様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 近年のデモクラシー論をめぐる、政治哲学の最新の成果をまとめた教科書です。とても勉強になります。

 各人が、自分にとっての善を自律的に追求する。そのような枠組みは、リベラリズムの思想によって与えられます。これに対して、すべての市民が、自律的に、デモクラシーを支える規範性を積極的に身につける。そのような枠組みは、ルソー的な民主主義の理想によって与えられます。リベラリズムと、ルソー的な民主主義を組み合わせることで、すぐれた政体を生み出すことができるでしょう。けれども、どちらが優先的・基底的な思想かといえば、それはリベラリズムでしょう。ルソー的な民主主義のもとで、全体主義の統治を行うことよりも、独裁政治の下でリベラルな個人権を保証されている社会のほうが望ましい、と考えられるからです。

 では民主主義をどう考えるべきか。すべての人が、この理念に規範的にコミットメントする必要はないとしても、ある一定の人たちがコミットメントしなければならない。そしてそのコミットメントが、共感原理を通じて広まっていく。そのような自生的な方法のほうが、望ましいと考えられます。(井上論文参照)

 その場合の民主主義というものを、(1)国会ベースの代表者による討議、(2)マス・メディア・ベースの大衆によるシンボリックな討議、(3)権力・権威に中立的で客観的な研究機関による情報提供(権力の監視と批判の役割)、(4)ツイッターなどによる民衆の自生的な言論活動、といった、およそ四つの次元で考えてみると、民主主義を支えるための制度的な装置を、どのような方向に積極的に求めていくのかをめぐって、議論を深めることができそうですね。

 民主主義の運営は、感情の動員を必要としている。感情を動員して、その感情が「世論」を形成した場合に、それを民衆が反省的に評価するような装置を作っておく。そのような仕方で、民主主義の質を向上させることができる。そのためには例えば、「時限つき立法」を増やして、ある一定の期間が過ぎたら、それを評価するようにするとか、投票を二回するシステム(投票二回制)にするとか、そういうアイディアが生まれますね。(斎藤論文)

 実験経済学が明らかにしてきたように、どのように選択肢を「構成」するのか、によって、人々の意見形成は、大きく左右されます。フレーミングによって、私たちの政治的選好は、いとも簡単に反転してしまう。だとすれば、いろいろなフレーミングによって、なんども評価するという態度と制度が、必要になるでしょう。

 

 

■ハイエクの理論的挫折から何を学ぶか

 

ハイエク著『資本の純粋理論U』ハイエク全集第二期、第九巻、江頭進訳、春秋社

 

江頭進様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 この第二巻で、『資本の純粋理論』の翻訳が完成されましたことを、心よりお喜び申し上げます。本書でハイエクは、資本について類型的に分けられる内容を、一つ一つ丹念に調べていくという研究アプローチをとっています。資本をめぐる専門書であり、数学的な手法を使わなかった点で、わかりにくい点も、多々あるのだと思います。ハイエクが戦争を逃れて、疎開先のケンブリッジで書き上げた本です。ハイエクは、本書の「第四部」で、本格的なケインズ批判をする予定だったけれども、それが未完成に終わった、というのが痛いですね。ハイエクは大きな挫折を経験したのだと思います。けれども一方で、『隷従への道』がベストセラーとなり、ハイエクは一躍有名になります。アカデミックな研究での挫折と、論壇での成功という、二重の経験をしたわけですね。

 

 

■ユダヤ人の「純粋な社会性」を求める運動

 

鶴見太郎著『ロシア・シオニズムの想像力 ユダヤ人・帝国・パレスチナ』東京大学出版会、2012

 

鶴見太郎様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 これまでも御論文や会話を通じて、この本の内容について触れる機会がありましたが、こうして分厚い一冊の研究書として完成してみると、圧巻ですね。

 ヨーロッパのユダヤ人といえば、ホロコーストの関係で、ドイツをイメージする場合が多いけれども、ドイツのユダヤ人は当時、52万人。これに対してロシア帝国には、ユダヤ人人口全体約1060万人のうち、約半数の519万人が暮らしていたのですね。そのユダヤ人たちは、パレスチナでは主流からはずれているものの、アラブ人とは直接対峙しないで暮らしてきた、という点に、本書は注目しています。しかも、社会主義シオニズムや労働シオニズムには関心がなく、パレスチナにも行かないでとどまる「残留派」もいるわけです。

 かれらは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ性の本質を欠いた運動を展開した、といえるでしょう。その運動は、純粋に「社会性」を求めるものであり、またその際に想像される「ネーション」は、多民族社会において、「一定の安定的基盤を得るための想像力」であって、具体的な国家の形成に結びついているわけではありませんでした。ただこうした「社会性」を求める考え方は、パレスチナではマイナーな考え方にすぎませんでした。ではどうすればよいのか。それが問題になるわけですが、いずれにせよ、ユダヤ人の多数派から、多民族の共生の仕方について学ぶことは多いです。

 

 

■オイコノミアの神学的な意味

 

大澤真幸著『〈世界史〉の哲学 中世編』講談社

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 大変啓発的です。アガンペンの『王国と栄光』に依拠して展開された箇所で、「経済(オイコノミア)」の神学的な意味についての、興味深い記述があります。

 神の存在が、その被造物からまったく超越したものだとすれば、それは存在を記述するとしても、神が人間を救済する実践については、何も語りません。そこで中世的世界に登場するのが、神のオイコノミア的パラダイム。それは神の世俗的な権力に対応するもので、神がこの世界をどのように統治しているか、に関わる理解です。

 神は、この世俗的世界において、恩寵を公正に配分しているわけではない。地上のあらゆることを気にかけるというのは、偉大な神にとってふさわしいことではない。神は全知ではない。まず中世のキリスト教では、そのように理解されます。その上で、個々の人間に対する恩寵の配分は、「神の代務者」(一般には天使、あるいは原型としてはキリスト)が行うことになる。代務者が行う救済は、「種別摂理」と呼ばれることになります。

 

 

■健康不安をあおると医療費がかさむ

 

井上芳保編『健康不安と過剰医療の時代』長崎出版

 

井上芳保様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

大変すばらしい内容の本です。

本書は問いかけます。健康不安をあおって、さまざまな高額の検診や健康食品にお金を費やすような社会は、はたして健全なのか、と。それはもちろん、健全ではない。けれども私たちは、いやおうなく巻き込まれている。それが私たちの社会の実態でしょう。

 冒頭に、「メタボ検診」の話題がありますが、これはとても皮肉な社会現象だったのですね。医療費を抑えるために、メタボにならないように啓発しよう、というのがそもそもの意図でした。それは官僚が思いつきそうな政策でした。ところがメタボを抑えるために、医療費がかさんでいく、というパラドックスが生じてしまったのです。

 この他、職場の健康診断で、高血圧の「異常」がここ数年、増加している、ということですが、その背景には、高血圧の基準が変更された、ということがあるというのですね。1987年には、180でした。ところが、2000年になると、年齢別に水準が規定され、59歳以下は130以上の値になると、「異常」とされてしまうのですね。そのように認定されると、高血圧を下げるために「降圧剤」を投与されることになるわけですが、その降圧剤のほうが、健康に悪い、という矛盾も生じています。

 

 

■啓蒙の弁証法は、別格

 

仲正昌樹著『現代ドイツ思想講義』作品社、2012

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 この本の中心は、アドルノ=ホルクハイマーの名著『啓蒙の弁証法』の精読と解説です。三つの章にわたって、本書をめぐる議論が続きます。私も学部生のころ、『啓蒙の弁証法』の内容を理解したくて、必死に翻訳を読んだ覚えがあります。本書のような丁寧な解説があると、とても近づきやすいですね。

 それから本書では、最初と最後に、ドイツ思想の源流と、最近のドイツ思想について、それぞれコンパクトにまとめられています。このまとめを読むと、スローターダイクという思想家は、やはり興味深い人です。ヒューマニズムというのは、人間を飼いならすための理念であって、そのように飼いならされた私たちは、これを否定できずに、ただ飼いならされてしまったことに対して、不平を述べることしかできません。

 いずれにせよ、ドイツの思想家たちは、その多くが亡命したことで、世界性を獲得すると同時に、ドイツ本国では、有名な思想家が現れにくい状況が生まれました。それをどう受けとめて、現代のドイツ思想を評価するか、という問題がありますね。

 

 

■シュモラーのひねり

 

小林純著『経済思想史論集T』唯学書房

 

小林純様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 クニースは、人間の行為をめぐる因果律は、けっして経験則によって把握できるものではなく、人間的要素の変化に応じて、変化すると考えました。しかし他方で、そうした「変化」をも考慮に入れて、歴史の発展法則を構想することはできる、と考えたわけですね。

 人間的要素の変化というのは、この場合、意志の自由とか人格の自由と呼ばれるもので、これらの自由のために、人間の行為には、経験則があまり妥当しないことになります。

 ところがシュモラーは、人間の行為の領域でも、心理的な因果連関は構成できる、と考えました。ただしシュモラーは、そうした因果律から、法則を獲得できるようになるのは、ずっと先のことだろうと考えて、個別研究を重視し、性急な「法則の定立化」は避けるべきだ、と主張したのですね。

 経済発展を支える人倫の発展法則というものは、シュモラーのような歴史学派によっても認められていた。それが意味するところは、両義的です。

例えば、個別の民族精神にもとづくナショナリズムを持ち出さなくても、国民経済のナショナルな発展を展望する道筋があるのかもしれません。しかしそのような道筋が見えない現状では、個別の民族精神に訴えることも必要になってくる。そのような関係について、把握する必要があるのでしょう。

 

 

■あまりにも個人主義的な日本人

 

橘玲『(日本人)』幻冬舎

 

橘玲様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

この本のタイトルは、「かっこにっぽんじん」と読むそうです。これまで日本人論は、戦後いろいろな形で論じられてきましたが、それらの多くは、ほとんど特殊日本的なものを指摘したのではなく、ある意味で普遍的な人間の本性を指摘したにすぎない、ということが、この10数年間のグローバリズム現象の中で、理解されてきました。本書はそうしたなかで、改めて日本人の特性とは何か、を問い返しています。

「世界価値観調査」というものがあります。それによれば、「あなたは進んで国のためにたたかいますか」という問いに対して、日本人は、15.1%しか「はい」と答える人がいません。国際比較では最低水準です。これに対して、スウェーデン人やフィンランド人は、80%程度の人々が「はい」と答えています。これはずいぶん違いますね。北欧社会のほうが、よっぽど愛国主義的な社会である、ともいえます。

同調査によれば、「日本人であることを誇りに感じるか」、という問いに対しても、日本人はあまり誇りを感じていない、という結果が示されます。日本人は57.4%、これに対して韓国人は88.5%の人々が、「自国民であることに誇りを感じている」ということです。

拙著『経済倫理=あなたは、なに主義?』では、イングルハートの分析を再構成して、まとまった仕方で紹介しました。本書ではこの拙著から、このイングルハートの分析を紹介している部分を、たくさん引用、参照していただきました。拙著を大いに利用していただき、光栄です。

イングルハートの分析から言えることは、日本人は国際比較において、とても世俗的で個人主義的であるということです。その特徴は、戦後の民主主義教育によって形成されたのかといえば、そうではなく、昔から日本人は個人主義的だった、というのが橘さんの主張です。あまりにも個人主義的なので、「空気」とか「水」というものがないと社会としてまとまらない。よく日本人は「空気」を大切にする、と言われるけれども、空気がないと社会が存続できないくらい、他の国民と比べて個人主義的だ、というのが現実というわけです。このイメージは、従来の「日本人論」の主張と、ずいぶん異なりますね。従来の日本人論にだまされない視角が必要、ということが本書を通じてわかります。

 

 

■家庭で時間を節約、職場で時間を無駄にするアメリカ人

 

アーリー・ラッセル・ホックシールド『タイム・バインド 働く母親のワークライフバランス』明石書店

 

坂口緑様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書によると、アメリカの「労働」者人口の45%は女性で、6歳から17歳の子を持つ母親のうち、74%が働いている。6歳以下の子供を持つ母親でも、59%が働いていて、1歳以下の乳児を持つ母親のうち、55%は、有給の仕事を持っている。また、その約半数は、フルタイムの勤務についている(ただしその場合、有給休暇をとっている可能性もあるでしょう)。

 統計を見るかぎり、アメリカという国は、労働時間の最も長い国であり、第二位の日本よりも二週間も長い。そうした過剰労働の現実を、本書は、「アメルコ」という会社の従業員に対するインタビューから、再構成しています。

 アメリカでは、家事の合理化が進んだ結果として、人々は家庭にあまり時間を費やさず、仕事に時間を費やすようになっている。仕事が面白くて、仕事中毒になっていく。そんな現実があります。すると人々は、今度は「家族を見つめなおすこと」に、第三の時間を費やすようになる。

 本来、私たちは、家族とともに、有意義な時間を過ごしたいと考えているし、そのようにすべきだとも考えている。ところがその「すべきこと」に時間を使うことができない。アメリカ人は、そうした「時間貧乏」の状態で、「もし時間があったら、子どもたちのニーズにどうやって応えるだろうか」と考えます。もし時間があったら、かなうであろう「理想の自己像」と、「現実の自己」のあいだは、大きなギャップが生まれています。そのギャップに、アメリカ人は悩んでいます。

 では、その「ギャップ」を、何で埋め合わせるのか。そこに第三の産業が生まれることになります。子どもへのプレゼント、子育ての代行、家庭内の紛争に応えてくれるサービス、等々。

 社員たちは、家庭では「時間を節約」するのに、職場では長時間労働の中で「時間を無駄」にしてしまう。そんな現実のジレンマが、よく描かれている本です。